
「神様」と呼ばれた1958年の対巨人の日本シリーズ4連勝の快投から5年。稲尾和久[右]の鉄腕はこの日、明らかに限界を迎えていた[左は中西太兼任監督]
1956~58年にはシリーズ3連覇の絶頂
西鉄ライオンズのエース・稲尾和久が降板を告げられたのは4回表だった。巨人相手にこれまで4点を失っていた稲尾は、先頭打者の
池沢義行と、続く
広岡達朗にもヒットを打たれ、無死一、二塁のピンチを迎えていた。本来の稲尾であれば、ここからが腕の見せどころである。しかし、もう追加点を与えるわけにはいかないと判断したベンチが選んだ投手は、稲尾ではなかった。
1963年11月4日。平和台球場では西鉄対巨人の日本シリーズ第7戦が行われていた。代わって登板した
安部和春も巨人打線の勢いを止めることはできず、西鉄はこの回9点を失った。西鉄攻撃の機会はまだ6イニング残っていたが、日本一の帰趨はこのとき事実上決した。
時計の針を少し巻き戻す。50年代後半、日本プロ野球に一大旋風を巻き起こした球団があった。「魔術師」
三原脩率いる西鉄である。
大下弘、中西太、
豊田泰光を中心とした「流線型打線」は並みいる好投手を打ち崩した。その豪快な野球から野武士軍団と称された西鉄は、56年から58年にかけて日本シリーズで3年続けて「球界の盟主」巨人を破った。
その投の中心が「鉄腕」稲尾であった。56年に別府緑丘高から入団するやいきなり21勝を挙げると、以降も先発&リリーフと大車輪の活躍を見せ・・・
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