
前列中央の黒いスーツが川上哲治新監督で、その右隣のメガネ姿の紳士は巨人軍顧問で日米の野球交流の架け橋と言われた鈴木惣太郎。プロ4年目の長嶋茂雄は後列左から2人目
名門の再建を託された「打撃の神様」
1960年11月、この年大洋に優勝を許した巨人に新監督が誕生した。川上哲治である。「打撃の神様」と呼ばれたこの男の使命は、5年も遠のいている日本一の座を奪回し、常勝巨人を復活させることだった。
しかし、その前途は多難と言えた。50年代に8度のリーグ優勝、4度の日本一を成し遂げた黄金時代の主力たちは退団しているか、いても全盛期の力を失っていた。2位に終わった60年の成績を振り返れば、投手陣は新人ながら29勝(最多勝)を挙げた
堀本律雄が目立つ程度で、打撃陣では長嶋茂雄のほかに頼れる選手はいなかった。入団2年目の
王貞治は一本足打法を身に付ける前で、打席で三振を繰り返しては「王は王でも三振王」とヤジられる始末。チーム打率はリーグ最下位の.229と、日本一どころかリーグ優勝もおぼつかない状況だったのである。
そんな中、川上は一冊の本に出合う。『ドジャースの戦法』。ロサンゼルス・ドジャースの教育係であるアル・カンパニスが書いた当時最先端の技術書である。本は守備のフォーメーションを中心に、チームプレーの重要性を繰り返し説いていた。川上は一読、「神の啓示を受けたと直感した」。個人の力の弱さを補うには、一人ひとりをチームワークという目に見えない糸でつなぎ合わせ、チームプレーという総合力で戦うしかないと確信したのである。それは大投手が抑え、四番の一振りで勝負を決めるという、豪快と言えば聞こえはいいがその実態は粗さが目立つ従来の日本プロ野球との決別を意味した。
61年2月、宮崎での春季キャンプで川上は選手たちに『ドジャースの戦法』を配った。そして言った・・・
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