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<90's HERO CLOSE-UP>ゴジラ完全覚醒前夜 巨人・松井秀喜、四番1000日計画

 

日本球界史上最強のバッターの一人と言われる松井秀喜。日本で332本、メジャーで175本のホームランを積み重ねた怪物だ。1990年代、巨人で7年間プレーし、チーム内で2位を大きく引き離す最多の204本塁打、570打点をマークしたが、実は、四番を打ったのは背番号と同じ55試合に過ぎない。

圧巻のスイングスピードでホームランを量産


長嶋監督のラブコール


 1999年、東京ドームでの巨人の打撃練習。この年、リーグ最多182本塁打を放つ強力打線の看板選手たちが打席に入り、力強いスイングで鋭い打球を飛ばす。その中でも松井秀喜は別格だ。独特の金属音を響かせ、打球がスタンドに次々突き刺さる。この年、松井はリーグ9位の打率.304で自身初の40本台、42本塁打を放っているが、実は四番打者は4試合だけだった。すでにオールスターでは当たり前のようにセ・リーグの四番に座っていたが、長嶋茂雄監督は頑ななまでに「松井四番」に踏み切ろうとしなかった。

 星稜高時代から身長186cm、体重86kgと恵まれた体でホームランを量産。その名を伝説に高めたのは、皮肉にも決して忘れられぬ悔しさからだった。92年、高校3年生夏の甲子園。2回戦の明徳義塾高戦で、明徳の馬淵史郎監督は、松井に対し5打席連続敬遠という信じられない作戦を取った。明徳義塾高が3対2で勝利をつかんだ試合後、松井は記者たちの質問に対し、「悔しいです」「分かりません」「よく覚えてません」など短い言葉で返した。淡々とし、怒りも投げやりな様子も感じられなかったが、プロ入り後に尋ねたとき「怒りに近い感情が湧き上がりましたが、出さなくてよかった。学校の印象もありますからね(笑)。あの出来事で全国にアピールできたわけですし、悪いことだけじゃなかったのかな」とも話している。

 圧巻のパワーといかつい風貌から「ゴジラ」と呼ばれ、高校通算60本塁打の松井は、当然どの球団も1位候補でリストアップし、争奪戦になると思われた。本人の希望は阪神だ。もともと大ファンで、あこがれの選手は掛布雅之だった。

 しかし阪神のライバルで、嫌いだったはずの球団から松井に強烈なラブコールを送る人物がいた。同年オフ、巨人監督に復帰した長嶋だ。10月12日の就任会見で「しばらくぶりに打者として大成する能力を持っている。心打つものを感じます。ご縁があれば育てたい」と松井について話している。一目惚(ぼ)れの理由は「たまたまテレビを見ていて、インコースのヒザ元を、アイアンバット(金属バット)ですけれど、糸を引くようなライナーのホームランを打った。高校生で、あのコースをヒザを使ってあれだけ振れる選手は、PL学園高の清原(清原和博。当時西武)以来だと思いますよ」と語っている。

 さらに「クリーンアップで年間最低30本は打てる打者が日本人で欲しいですから。脇役なら毎年何とかやり繰りすればできますが、クリーンアップを打つ素材となると、これはもう、なかなかいない。しかもチームリーダーとして巨人軍の伝統を継承していくという役目がある。まあ、今回は敗れてもいいから、逃げないでドラフトで勝負をかけなければいけませんね」とも話していた。

屈辱の二軍スタート


 11月21日、ドラフト会議では中日、ダイエー、阪神、巨人の4球団が1位で競合。交渉権を引き当てたのは長嶋監督だった。サムアップして「長嶋スマイル」を見せ、会場が沸く。

「タイガースに行きたかったけどクジですから。長嶋さんにはいろいろ褒めてもらい、感謝しています」

 と松井。そのあと長嶋監督は「松井君、君は巨人の星だ。ともに汗を流し王国をつくろう。熱い期待を込めて待っている」と直筆の色紙を贈った。

 背番号は55。言わずと知れた巨人・王貞治のシーズン本塁打記録である(当時)。長嶋監督は「3年1000日計画」を立て、「自分の手元に置き、育てたい」とも語っていた。

 ただ、自身の後継者に、というのはまた違う気がする。妄想になるかもしれないが、長嶋監督はかつて「ワンちゃんがいたことでホームランを追求するのはやめた」と言っていたことがある。ただ、それは負けず嫌いの男にとって、本意ではなかったはずだ。

 監督として松井という王に匹敵するホームランバッターに出会ったことで、彼に自身の技術、感覚を注ぎ込み、ONを合体させたようなバッターを育てたいという夢を抱いたのではないだろうか。

入団1年目から長嶋監督[左]との二人三脚が始まった


 ポジションも高校時代の松井は長嶋監督同様サードだったが、長嶋監督は「彼は足が速いのが魅力。100メートル11秒台の俊足を生かし、外野で使いたい」と話している。ただし、松井自身は「僕は11秒台で走ったことはないんですけどね」と笑っていたが。

 1年目の宮崎キャンプは長嶋人気と松井人気で、休日になると4万人近い大観衆が集まる大騒ぎとなったが、オープン戦ではプロのスピードと変化球に戸惑い、三振の山を築き、オープン戦終盤には二軍落ちとなった。イースタンの開幕戦を前に松井は「落とした人が後悔するような成績を残したい」と18歳の若者らしく気負った言葉を残している。

 プロデビューは4月10日、高知県春野のイースタン開幕戦。同じくドラフト1位でヤクルトに入団した伊藤智仁から特大のホームランを打ち、意地を見せ、以後も好調を維持。5月1日に一軍昇格を果たし、同日、東京ドームのヤクルト戦で七番・レフトでスタメン出場。5回には西村龍次からセンター頭上を越える二塁打、翌2日には9回二死一塁から高津臣吾のインコース低めをとらえて初本塁打を放っている。ヤクルトの野村克也監督は「勝っていたから試しに投げさせてみた。ホームラン打者なら逃さないコースだからね。いい選手になるんじゃないの」と話していた(3対4で敗戦)。

 しかし以後、当たりが止まり、代打起用が増える。打率は1割を切って7月8日二軍落ち。それでも「ベンチにいるよりは下で試合に出たほうがいい」と、今度は気落ちした様子を見せなかった。8月16日に一軍に再昇格し、22日の横浜戦(横浜)でスタメン出場すると、以後、一軍定着。2003年にFAでニューヨーク・ヤンキースに移籍するまで巨人の公式戦から松井の名前が消えることはなかった。

野球人生の礎


その背中と言葉から松井がさまざまなことを学んだ落合[右]


 翌94年、落合博満がFAで中日から加入。振り返れば、長嶋監督は松井に「四番打者像」を学ばせるための生きた教科書を準備したかもしれない。

 ただ、自主トレで背中を痛め、宮崎キャンプも二軍スタート。若いころの松井は春先の故障や体調不良が恒例行事のようでもあった。それでも開幕戦では1本塁打を含む3安打、5打点。5月31日の中日戦(東京ドーム)ではプロ初のサヨナラ本塁打も放っている。オールスターでは2試合ともセの四番に座ったが、20歳1カ月での四番は、62年、王を抜く最年少記録だった。同年、打率.294、シーズン最終戦、あの「10.8」でのホームランで20本の大台にも乗った。

 しかし95年もケガで出遅れ、序盤戦はバットも湿る。それでも最終的には打率.283、22本塁打だから悪くはないと思うが、シーズン終了後、広報の香坂英典氏に「遊びの時間は終わりました」とオフの取材に制限をかけるよう頼み、専属の打撃投手を雇って鍛え上げた。迎えた96年、打率.314、38本塁打、99打点でメークドラマと言われた大逆転優勝に貢献。ホームラン王は中日・山崎武司に1本差で譲るもMVPに輝いている。

 97年、さまざまな影響を受けた落合が退団し、清原和博が西武から入団すると、刺激を受けたのか4月10本塁打とらしからぬ? スタートダッシュも、最終的には37本でまたも1本差でホームランキングを逃した。

清原[左]加入は松井にとって大きな刺激剤にもなった


 ちなみにこの年、松井は四番には一度も入っていないが、長嶋監督が松井を突き放していたわけではなく、むしろ逆だ。のちに明かされたことだが、頻繁に松井を自宅やホテルに呼び出し、マンツーマンでスイングのチェックをした。こだわったのはフォームではなく、トップスピードのときの音。さらに「手のひらにマメができるのは二流」とも言っていたという。松井も当初は手のひらにマメがびっしりできていたが、長嶋監督の指導で徐々にできなくなった。

「怒られてばかりということはないですけど、一度も褒められたことはないですよ。ほかの選手への接し方とは違っていたと思います」

 と松井。引退会見では、「長嶋監督と出会い、毎日のように2人きりで指導していただき、その日々が僕の野球人生にとって大きな礎になりました」と振り返っている。

マイペースではあったが、練習量もすさまじい選手だった


 98年34本塁打、100打点で初のホームラン王、さらに打点王のタイトルも獲った。さらに90年代最後の99年は、最終的には42本塁打、95打点。故障もあってヤクルトのペタジーニには及ばず、タイトルには届かなかったが、40本塁打以上は日本人選手として10年ぶりだった。

 2000年のシーズンを前に松井はこう話した。

「四番を打ちたいと、今年は珍しく思っています。これまで三番を打ってきても、ずっと四番を打ちたいと思ってきました」

 以後、00年から02年まで松井は全試合で四番に座り、02年は優勝と日本一、さらに50本塁打を置き土産に海を渡る。90年代をゴジラの覚醒前夜とするのは乱暴かもしれないが、自らに限界をつくらず、少しでも、一歩ずつでも上を目指して、必死にあがき続けた時期だったことは間違いない。(井口)

■90年代の松井の四番成績

PROFILE
まつい・ひでき●1974年6月12日生まれ。石川県出身。右投左打。身長186cm、体重86kg。1年目後半から一軍定着。96、2000、02年がMVP。98、00、02年が本塁打王、打点王の2冠、01年が首位打者。03年からMLBへ。12年引退。NPB通算成績1268試合、1390安打、332本塁打、889打点、46盗塁、打率.304。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 セ・リーグ編 2021年11月30日発売より

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