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【90's カープの記憶】「ツネの分も」踏ん張った守護神と貧打を救った急造四番打者 1991年、「コウジの胴上げ」を支えた2人の陰のMVP

 

1990年代の広島が、唯一セ・リーグの頂点に立ったのは、1991年。山本浩二監督の3年目だった。投手陣は充実していたが、抑えの津田恒実が病に倒れ、打線は世代交代の狭間にあって主砲が不在。優勝争いをするには厳しい条件下にあったが、そんなチームを救ったのが、2人の「陰のMVP」だった。
構成=藤本泰祐 写真=BBM

「球場祝勝会」で乾杯する山本浩二監督。その右側には西田真二やMVPとなる佐々岡真司の顔も見える。投手王国が打線をカバーしてのVだった


 まさか、このあと25年も待つことになろうとは、このときには誰も思わなかっただろうが、1990年代の広島のハイライトは、やはりこの10年間で唯一の優勝である、1991年の山本浩二監督の胴上げだ。

 カープ最大のスター選手である山本浩二が監督に就任して3年目。だがここまでのチームづくりは順調に来ているとは言えなかった。投手陣は、北別府学大野豊川口和久といった、5年前のVを知る主力が健在で、充実を見せていた。だが、打線は苦しかった。こちらは前回Vの味を知る主力で残っているのは、正田耕三山崎隆造らバイプレーヤーばかり。自らの後継者として期待した小早川毅彦も四番定着はできず、中軸の顔ぶれが定まらない。つまり、山本監督は自らが引退したあとの穴に苦しんでいるのだった。

 監督就任後、大下剛史ヘッドコーチの号令の下、猛練習で鍛え込んできた、高卒3年目の江藤智、2年目の前田智徳といった期待株はいる。しかしどこまで働いてくれるかは未知数だ。彼らが伸びてこなければ、高沢秀昭や外国人のロッド・アレンバークレオを主軸に戦うということも、開幕前には考えられた。

 幸い、投手では前年ルーキーながら大車輪の活躍で13勝17セーブを挙げた24歳の佐々岡真司、野手では前年ショートのレギュラーとなって打率.287、盗塁王を獲得した25歳の野村謙二郎と、中心選手に育っていくであろう存在はいた。この2人がバリバリ働いた上に、ベテランが力を発揮し、若手が順調に伸び、最年長選手の達川光男や選手会長の山崎らを中心にチームがまとまれば、がV争いへの条件。下馬評では優勝候補ではなく、Aクラスに行けるかどうか、の評価だった。

 そんな開幕前、山本監督は投手起用に関して一つのプランを打ち出していた。大野と津田恒実の「ダブルストッパー構想」だ。前年、抑えにも起用していた佐々岡を先発に専念させて回すためだ。大野、津田とも抑えの経験は十分。ただし、大野は肩、ヒジに、津田は体調に不安を抱えていた。

 4月6日、前田の開幕戦先頭打者本塁打でスタートしたペナントレース。だがその直後、山本監督の描いていた構想の一角が崩れる。4月14日、1点リードでリリーフに立った津田は一死も取れずに逆転を許し降板。そのあと体調不良のため戦列を離脱してしまったのだ。抑えは大野が「一人ストッパー」で務めることになった。

 大野は、不安のあった肩、ヒジを気遣いながらも、見事に役目を果たしていった。抑え投手が2、3イニング投げるのが普通だった当時にあって、ほぼ1、2イニングの登板、しかも連投は極力避ける、という形を重ねながら、3試合目の登板から、当時のプロ野球記録である登板14試合連続セーブをマーク。「大野さんにつなげば勝てる」の手応えを得た投手陣が踏ん張り、広島は勝利をモノにしていく。5月には9連勝(うち2失点以下の勝利が6)して首位にも立った。

 しかし、打線が湿りだすとやはり苦しくなる。1試合平均3.7点しか取れなかった6月には負け越し、4位転落。7月途中には首位・中日との差が7.5ゲームまで開いた。

 打線の構想は、やはり完全に狂っていた。前田のレギュラー定着で出番のなくなった高沢はロッテへ出戻りトレード、バークレオは不振で二軍へ、アレンもホームランを2本打っただけで腰痛もあり6月上旬から戦列を離れていた。江藤も一時四番を打ったが、やはり壁に当たった。三番には野村を入れてしのいだが、四番がいない――。

 この窮地を救ったのが、「四番を打てる打者がいないのでね。はっきり言って開き直り」(山本監督)で四番に起用された西田真二だった。それまでは代打の切り札を務めていた男。「代打やってましたから、集中力はあります」と、6月1日のヤクルト戦(柏崎)では1回表に先制満塁弾を放つなど、四番として勝負強さを発揮した。

シーズン途中から四番を務めた西田真二。この年の成績は、打率.289、7本塁打、51打点だったが、何度も勝負を決める一打を放った存在感は、その数字以上のものだった


 そして、カープのナインには、首位と離されようとも踏ん張らなければいけない理由もあった。夏場のある日、ミーティングで、表向き「水頭症」と発表されていた津田の、本当の病名がナインに伝えられた。脳腫瘍──。一部知らされていた選手もいたが、多くのナインは声を失ったという。「ツネ(津田)のために──」。それからは、それがナインの合言葉になった。大野も、「あの年はツネへの気持ちが後押ししてくれた」と、のちに振り返る。

 1試合平均3.7得点と貧打が続いた7月を、平均失点3.1で勝ち越したカープは、徐々に首位との差を詰めていく。8月26日にはヤクルトとの延長15回の死闘を四番・西田のサヨナラ打で制して2.5差。そして首位・中日との決戦を前にした9月上旬、選手だけのミーティングで「われわれはこういうときにひっくり返すのが伝統のチームだ。ここからの試合、みんな死ぬ気で行くぞ!」と達川が一席ぶってムチが入った。

 9月10日からのナゴヤ球場での中日との首位攻防戦に3連勝して首位を奪ったカープは、その後も19日のヤクルト戦(広島)で四番・西田が逆転サヨナラ2ランを放つなど加速。21日に松井隆昌の代打逆転打で勝ち、マジック「14」を点灯させた。松井は29日のヤクルト戦でも代打逆転満塁本塁打。Vへの軌道を揺るぎないものとした。

 そしてマジック「1」で迎えた10月13日の対阪神ダブルヘッダー(広島)。第1試合は落としたものの、第2試合、西田の適時打で1回裏に1点を挙げると、この「スミイチ」を佐々岡から大野のリレーで守って優勝を決めた。“表のMVP”佐々岡が力投し、四番・西田と、「ツネのためにも」と1年間踏ん張ってきた大野の“陰のMVP”2人が脇を支えての1対0、まさにこの年のカープを象徴する勝利だった。

10月13日、対阪神ダブルヘッダー第2試合の最後を締め、捕手の達川光男と抱き合う大野豊。病に倒れた津田の分もと踏ん張り続けた


 山本浩二監督がナインの手で宙に舞った後、前代未聞の球場祝勝会が始まった。ユニフォームを脱いでスタンドに投げ込んだり、ビールをスタンドにまで振りまいたりと、喜びを爆発させる選手たち。グラウンドに敷かれたビニールシートでは覆いきれない歓喜とともに、ビールの泡が、市民球場の土に染み込んでいった。

 この年、広島のチーム防御率は3.23。チーム本塁打わずか88でのVだった。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 セ・リーグ編 2021年11月30日発売より

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