2002年、日本シリーズの前に痛めた左足太もも裏の肉離れは重傷だった。ふつうであれば、とても試合に出られる状態ではない。それでも清原は「足なんて壊れてもええ。チームのために体を張りたい」と強行出場。前号でも触れたように、攻守で捨て身のプレーを見せ、日本一に貢献した。だが、無理がたたり、故障は悪化した……。 原監督の信頼
02年の日本シリーズの後、
松井秀喜がFAでメジャー挑戦を表明(のちヤンキース入団)。
巨人のフロントは01年のMVPで
ヤクルトの四番だった
ペタジーニを獲得したが、2年目を迎える
原辰徳監督は最初から「四番は清原しかいない」と断言していた。しかし回復が遅れ、翌03年の春季・宮崎キャンプも別メニュー。休日には名古屋に飛び、かかりつけの整体で足を治療した。さらに2月下旬になって、今度は右太ももを痛める。これで開幕はほぼ絶望となったが、個人トレーナーのケビン山崎氏、チームの神谷成仁トレーナーがつきっきりでサポートし、わずかな望みに懸けた。原監督もまた、清原の復活を信じ、開幕戦では四番に
高橋由伸を座らせ、ペタジーニは五番。一塁も守らせなかった。
3月29日、ジャイアンツ球場のイースタン戦が35歳の清原の開幕となった。客席は満員。お目当ては、清原と、この日の対戦相手ヤクルトの先発、ドラフト1位ルーキー・
高井雄平(現・雄平)の対決だ。結果は清原の貫録勝ち。初回は四球、2打席はライト線にヒットを放った。試合後、囲み取材で「ひとつ階段を上がったなと思っています」と語り、高井の印象などについてはなめらかに話していたが、ケガについて聞かれると憮然とした表情となり「とりあえず新しいケガはしなかっただけです」。「2打席目は1打席目と比べ、感覚が違ったか」という質問には「そんなに簡単に感覚が戻るなら1カ月もオープン戦をしないでしょう」。テレビで見た一軍開幕戦の印象を聞かれても「特にありません」。最後はケンカ腰だった。
この日だけではない。このころの清原は、囲み取材で最初の2、3の質問にはふつうに答えるが、その後は不機嫌さを隠さず、まともに答えなくなった。本誌のスタッフが某スポーツメーカーとのタイアップ記事でインタビューをした際もそうだった。商品についての質問にはふつうに答えるが(一度も目は合わさなかったが……)、「故障からの復活は大変だったでしょう」と話を振ると、沈黙の後、「なんで、そんなことに答えなきゃいけないんや」と表情を一変させ、「読者も興味あると思うんで」と言うと、「そんなもん、好きなように書けばええやん」と吐き捨てるように言われた。
4月半ばに一軍昇格。清原は「二軍のスタッフ、チーム関係者、僕の足を見てくれた人たちへの感謝の気持ちをもってグラウンドに立ちたい」と語り、11日いきなり「四番ファースト」でスタメン出場・・・
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