四番打者が目まぐるしく変わる今年の巨人。この固定できない四番にファンや評論家の風当たりは強い。これが三番や五番だったらそれほどでもないだろう。「四番打者」には証明の難しい威厳と品格があるのである。プロ野球80年の歴史で光を放つ存在だった四番打者をピックアップしてみる。ただし、ここの17人と同じくらいに光り輝いた「三番打者」が数多く存在したことを断っておく。 文=大内隆雄 写真=BBM 1938~58年 川上哲治[巨人]
巨人最多の1658試合で四番を打つ 巨人史上最多の1658試合で四番を打っている川上でも、戦前は、数々のタイトルに輝きながら、四番でフルに活躍したのは41、42年の2 シーズンのみ(川上は38年入団)。巨人には
中島治康という、38年秋に三冠王の強打者がいたからだ。しかし、戦後の46年からは巨人の不動の四番打者となった。四番で記録した2034安打、1130打点は四番・
長島茂雄、四番・
王貞治も及ばない。58年、新人・長島が85試合目に初の四番を打つと、川上時代は終わった。
1936~58年 藤村富美男 [阪神]
猛打、ショーマンシップで大人気 初代ミスター・タイガースは、投手兼務だったので、戦前は入団3年目の38年秋に四番に定着。と思ったら兵役に取られ復帰した43年は規定打席に不足。44年は四番だったが、プロ野球は35試合で打ち切り。藤村が光り輝いたのは戦後再開の46年。四番打者として打率.323(4位)。投手として13勝2敗。まさにミスター・タイガース。47年からは不動の四番。55年に
田宮謙次郎にその座を譲るまで四番に君臨。5度の打点王など数々のタイトルを獲得。
1946~59年 大下弘[セネタース・東急・急映・東急-西鉄]
最強西鉄誕生の原動力となった四番 “青バット”でホームランブームを巻き起こした天才打者は、セネタース・東急時代の後半は三番が多かった。52年途中に西鉄に移ると、
三原脩監督は若いチームのお手本として四番に据え続けた。
中西太、
豊田泰光、
関口清治は、長打力で大下に勝っていたが、三原は四番・大下にこだわった。これは大成功で、56年からの3年連続日本一につながった。57年はわずか4本塁打の四番だが、三番・中西、五番・関口との最高のつなぎ役となった。巨人との日本シリーズではMVP。
1952~70年 山内一弘[毎日・大毎-阪神-広島]
名人芸のシュート打ちで四番10年 山内が入団した52年、毎日は四番不在・・・
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