滋賀・高島高時代も145キロ右腕として注目されたが、プロ志望届の提出は見送った。大学では入学早々に挫折を味わったが、これも今となっては良い経験。大学ラストシーズンに野球人生をかけて臨む。 取材・文・写真=沢井史 
2年時の大学選手権では2試合に登板。同年春以来、優勝から遠ざかっており、ラストシーズンへの思いは強い
高校3年間の取り組みで球速が25キロ以上アップ
「ピッチャーを本格的に始めたのは、高校からなんです」 今では150キロを超える速球を投げ込む
瀧中瞭太が不意に放った言葉に、記者は思わず「えっ?」と聞き返してしまった。
今春の関西六大学リーグでは49回2/3を投げ、41奪三振をマークし、リーグ2位の1.63の防御率を残した。大院大との開幕戦では、リーグ新記録となる7者連続奪三振を含む15個の三振を奪い、1失点完投勝ち。次戦の大商大戦では150キロを2度もマークした。
野球を始めた小学3年生時は、三塁手と一塁手を兼任。だが、「高校野球をやるなら(一番目立つ)ピッチャーがいい」とずっと決めていた。中学時代はチームで3番手投手だったが、同級生の投手陣の中では最もスピードは遅く「実力は自分が一番下だった」と本人。まともにこなしたことがなかった投手にとって高校の練習メニューは過酷を極めたが、「投手はとにかく打たれなければいい」という一心で前向きに取り組んだ。そうして、1年秋には背番号16を着け同級生の中で最も早くベンチ入りを果たす。その要因となったのは絶妙なコントロールの良さだった。
「もともと野球を始めたのは父と兄の影響で、小さいころからよくキャッチボールをしていたんです。そのときに父から『ピッチャーはコントロールが一番大事』とよく聞かされていたので、球威よりもまずは制球を重視してきました」 レベルアップのため、追い込みをかけようとした1年冬に腰椎分離症を発症。しばらく白球を握れなくなった・・・
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