長く先発完投こそ投手の花と呼ばれた時代が続き、リリーフが専門職として評価されるようになったのは70年代終盤からだ。ここでは歴代のリリーバーたちを時代の流れとともに紹介していこう。 エース=抑えの時代
過去、投手は完投してこそという時代が長く、かつ各チーム、大エースを中心に回っていた。歴代のランキングを見ても分かるように、
金田正一(国鉄ほか)が132勝で救援勝利数トップ。勝てる試合は途中からでもエース級をつぎ込むのがセオリーだった。短期決戦の日本シリーズを思い浮かべてもらえばいい。58年西鉄の
稲尾和久、59年南海の
杉浦忠が先発、リリーフで全勝利を挙げ、80年代の
西武にも同様の例が見られた。稲尾はシーズン中、
三原脩監督の“魔術”で苦手打者で一度一塁に回り、その後、ふたたびマウンドに立ったこともある。
抑え専門投手が登場し始めたのは、60年代中盤から。有名なのは、
巨人の
宮田征典。心臓疾患もあって長いイニングを投げられなかったこともあるが、ウグイス嬢に「宮田さんって8時半くらいにいつも出てますよね」と言われてついた異名が「8時半の男」。65年には先発2度で20勝を挙げ、規定投球回にも達している。

宮田征典[巨人]。62年入団。右投右打。心臓の疾患があり、抑えに専念。V9初年度に“8時半の男”と呼ばれ活躍。69年引退。通算267試合登板、45勝30敗、防御率2.63
他球団でもセでは
中日・
板東英二、
広島・
竜憲一、パでは血行障害で長いイニングの登板を止められた南海・杉浦が抑え専門となっている。
勝利の方程式の確立
70年代に入ると南海では
野村克也監督が無類のタフさで強心臓の
佐藤道郎をルーキーイヤーから抑えに起用。入団から5年連続最多交代完了をマークした。ただ、当時はセーブ制度がなく、抑えはまだまだ日陰の存在。佐藤は74年に制定された初代セーブ王に輝いているが、その前の4年も、制度さえあれば、間違いなくタイトルホルダーだっただろう。

佐藤道郎[南海-大洋]。70年入団。右投右打。以後5年連続リーグ最多交代完了。抑えながら70、74年と2度の最優秀防御率にも。80年引退。通算500試合登板、88勝69敗39セーブ、防御率3.15
74年、セの初代セーブ王となったのが、中日・
星野仙一・・・
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