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わが思い出のゲーム

山沖之彦が語る思い出の試合 「今でも心に引っ掛かっている」

 

個性派軍団だった当時の阪急の中にあって、190センチを超える長身投手として先発、抑えで活躍した山沖之彦。ルーキーイヤー(1982年)からチームの中心として腕を振るってきたが、6月23日の西武戦(西宮)、人生初となる経験、衝撃を味わうことになった。
取材・構成=杉浦多夢


必死だったルーキーイヤー


1982年にドラフト1位で阪急に入団した山沖之彦は、開幕戦でいきなり初登板初セーブをマークすると、その後も初先発のチャンスで初完投初勝利を挙げるなど、新人とは思えぬ活躍であっという間にチームの主軸となっていく。84年は不本意ながらリリーフを引き受けてリーグ優勝に貢献。87年には19勝で最多勝に輝いたが、その年の9月はまさに獅子奮迅の活躍を見せ、月間MVPも手にしている。それでも、最も心に残るのはルーキーイヤーのある試合だという。

 自信になったという意味では1987年の9月、月間MVPを取ったときの数試合ですね。前半戦でチームは首位だったんですけど、西武に追い上げられて2位に転落。9月は連戦が続いていて、常に負けられない状態でした。そんな中で、9月22日に南海との2連戦の初戦(西宮)で完投勝ちして、「よかったな」って家で夕飯を食べていたら、投手コーチから電話があって「次の頭いけるか?」と。次のカードの頭というのは中2日のロッテ戦ですよ。

「ローテーション崩れますよ?(ほかに)いないならいきますけど」と答えて先発することになりました。

 そのロッテ戦でも3失点の完投勝ちだったんですが、相手ベンチで有藤さん(通世/当時のロッテ監督)がめちゃくちゃ怒っていて。「中2日で投げてるピッチャーをなんで打てないんだ!」って(笑)。さらに次のカードの頭だった南海戦(大阪)にも中3日で先発して、8回2失点で勝利。8日間で3試合に先発して3勝できたというのは、自信になったというか、うれしかったですね。それが月間MVPと最多勝につながりましたし。

 ただ、最後の南海戦ではベースカバーのときに足がつってしまったんです。次の西武2連戦も中3日で頭に行く予定が、先に星野(伸之)が投げて、自分は2戦目で負けてしまった。それでシーズンも西武に負けてしまいました。大事なところで打たれたり、負けたりしてるんですよ(笑)。

 そうは言っても、一番心に残っているのはルーキーイヤーの試合ですね。6月23日の西武戦(西宮)で1回表に5点を取られてノックアウトされた試合です。そこまでの開幕からの流れもあって、今でも心に引っ掛かっている試合ですね。


開幕戦で初登板初セーブをマーク[写真上]、先発デビュー戦では初完投で初勝利[写真下]と、山沖は新人ながらチームの信頼をつかんでいたが……


 その年の開幕戦ではリリーフでプロ初登板して、セーブもつきました。8回一死一、二塁でマウンドに上がって、なんとかゼロに抑えて。上田(利治)監督が、「今季は山沖にかける思いで使った」なんて言ってくれて。かけてもらっても困るな、なんて思ってたんだけど(笑)、そのあと何試合か試合を壊してしまったんです。5月7日(西武戦=西武)に初先発初完投初勝利をするんですが、試合前は必死でしたね。抜擢されたというよりも、リリーフを外されたという思いだったから。ここで頑張らないと次がないという。9回二死から捕手の中沢(伸二)さんが盗塁を刺してくれて。そこで踏ん張れたので、しばらくは先発でいいピッチングができていたんです。

初めての眠れぬ夜


1982年はパ・リーグが前後期制で行われた最後の年だった。前期、阪急は終盤まで西武をリードする。激しい優勝争いを繰り広げる中、新人の山沖に西武との直接対決で先発の機会が訪れた。そして、人生で初めて“記憶が飛ぶ”という経験に見舞われることになった。

 西武と優勝争いをしている中で、先発として少し結果が出ていました。明日はその西武戦という試合でベンチに控えていると、6回くらいに突然監督に呼ばれ、「明日、先発だからもう帰っていいよ」と言われて。

「ええ!先発!」ってなりましたよ(笑)。優勝争いをしている終盤だったので、山田(久志)さんはいつでも行けるようにリリーフに回っていたんです。でも、なんで佐藤(義則)さんでも今井(雄太郎)さんでもなく、ルーキーの自分なんだと。

 その夜は野球をやっていて初めて、眠れない夜になりましたね。天気が悪そうな雰囲気で、監督は「大丈夫、明日は雨だから」なんて言っていたんですけど、寮に帰ってビールを飲んで、寝ようと思うんだけど目が冴えていく。「雨だろう、雨だろう」と考えていたら朝になっていた(笑)。

 結局、雨は降らず、マウンドに上がったわけなんですが、一生懸命に投げているはずなのに、どこかボーっとしているというか、ふわふわしていて、踏ん張っていないと倒れそうな感覚でしたね。初回に一死一、二塁から大田(卓司)さんに詰まりながらセンター前に落とされて1失点。そのあと満塁になって、立花(義家)さんに満塁ホームラン。そこで記憶は全部終わっていますね。


 今回、あらためて記録を見てみたら、そのあとも投げているんですね。本当に覚えていなかった。その回はなんとか抑えて、2回に先頭の石毛(宏典)さんにもホームランを打たれ、そこでようやく交代。でも覚えてない。立花さんの満塁ホームランで終わり。そこからはベンチにずっと座っていたことしか覚えていないです。ただ周りの目はすごく冷たかったですけどね(笑)。

 お客さんも3万9000人も入っていたんですね。優勝のかかった大事な試合ですからね。ただ、引退してからの話ですが、娘(宝塚歌劇団の芹香斗亜)が新人公演で主役をやることになったときに、宝塚の先輩にアドバイスをもらうというので、一緒に話を聞きにいったことがあるんです。そのとき、娘は先輩から「緊張するのは稽古が足りないから」と言われていて。それを聞いて、なぜかあの試合のことを思い出しながら「やっぱりそうか!」って、自分に置き換えていたんです。娘が言われた「つらいことを忘れるくらい練習しなさい」という言葉が自分に刺さった(笑)。確かにもう少し頑張れたんじゃないかな、自分は甘かったんだなってね。

 それでも、あの試合をきっかけにある程度、勝ち負けにはこだわらなくなりましたね。勝ち負けよりも、目の前のバッターとの勝負に集中するというスタイルになっていった。それが良かったのか悪かったのかは分からないですが。

 ただルーキーイヤー全体を振り返れば、充実していました。ずっと先発ローテーションに入れてくれて。普通、新人に15敗するまで投げさせないでしょう(笑)。それだけ監督やチームの信頼とやりがいを感じていました。頼られたら結果を出さなければいけない、というね。それだけに、優勝がかかった中で投げて、期待に応えられなかったあの試合が、一番引っ掛かっているんですよね。

PROFILE
やまおき・ゆきひこ●1959年7月26日生まれ。高知県出身。中村高では77年春のセンバツにエースとして出場し準優勝。チームメンバー12人で「二十四の瞳」と称される。専大を経て、82年ドラフト1位で阪急入団。1年目から主力となり、84年はリリーフとして最優秀救援投手を獲得する活躍でリーグ優勝に貢献。87年には19勝を挙げ最多勝を獲得。95年に阪神へFA移籍し、同年オフに引退。現在は野球解説者として活動中。通算成績は327試合登板、112勝101敗24セーブ、防御率3.92。
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