われわれは「ワイドショー」ではない。転落の原因を探ろうと思っているわけではないし、美化や擁護をする気もない。当時の言葉などを拾い集めながら“清原和博”という希代のスター選手の熱き軌跡をあらためて振り返るだけだ。ただ……それが結局、「栄光と転落」の軌跡になるのが残念でならない。 はるか先に行く王に「追いつかれる不安」
保釈された清原和博は糖尿病の治療のため入院生活を送っている。いまだ報道陣の前に姿を見せておらず、薬物依存からの回復具合なども明らかになっていないが、弁護士を通じ、コメントを発表。それは「必ず人の役に立つ人間となることを心に誓っております。いつか機会をいただき、直接皆さまに謝罪したいと切に願っています」と結ばれていた。
時計の針を戻し、あの涙の日本シリーズの後、1988年から振り返ってみよう。プロ3年目、
西武だけでなく、球界のスーパースターとなった清原和博を待っていたのは、執拗なまでの内角攻めだった。4月17日には、
日本ハム戦で左手甲に死球。痛みが長引いた。当時のスイングについて西武の先輩で解説者だった
大田卓司氏から「バットのヘッドがやや遅れて出てくるから外角はタイミングが合うが、内角は難しい」と言われると「内角だからと始動を早くするのは嫌。早めて打ちにいくと爆発力に欠けるんです」と答えている。ヒットではなく、周囲が「すげえ!」とうなる豪快な一発が欲しいのだ。それは選手時代を通し変わらぬ“清原イズム”でもある。
大田氏との7月2日の対談時点でホームランは11本。すでに7月を迎えていたが、「あと29本どうしても打ちたいんですよ。そうすれば3年で通算100本になるから」と語っていた。それは
巨人・
王貞治のあこがれと、実は影に怯えてでもあった。
通算868本塁打。世界のホームラン記録ははるかかなたにあったが、清原は自分がそれを抜き去るためのプランを立て、同じ時期の王の数字を意識していた。王は一本足打法になる前の3年間、決してホームランの多いバッターではなかった。ここで、「追いつかれたくない」。そんな思いをずっと抱いていたという。
最終的には31本塁打。目標には達しなかったが、それなりに数字は伸ばした。そして、清原の新伝説のスタートは、この年の対
中日日本シリーズ第1戦(ナゴヤ)だった。2回表、
小野和幸から放った打球は左翼スタンドの場外へ飛ぶ推定150メートル弾。近くを走る「新幹線まで届いた」とも言われた。西武は日本一を決めたが、敗れた中日の四番・
落合博満が・・・
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