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DeNA・中川颯 誇り高きサブマリン「人とは違うことにこだわるのが、自分のアイデンティティー」

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DeNA移籍初年度から存在感を示した球界でも希少なアンダースロー。日本シリーズ第2戦の6回から7回二死まで回またぎで登板して以降中継ぎ陣は第6戦まで1点も失うことなく頂点に立った。26年ぶり日本一への流れをつくったのは間違いない。さらなる飛躍も期待される中、小学校6年生から腕を下げた生粋のサブマリンは、主観を軸にプロの世界で浮上してきた。
取材・文=石塚隆 写真=BBM

DeNA・中川颯


サブマリンの目覚め


 アンダースローの投手として生きることとは、どういうことなのか――。

 この漠然とした質問に、DeNAのサブマリン・中川颯は、しばし沈思黙考すると、確信を込めてこう言った。

「“主観”が重んじられるものであり、そして“孤独との戦い”ですかね」

 そう口にした中川の表情は穏やかで、どこか好奇心に満ちたものだった。

 1998年、ベイスターズが38年ぶり2度目のリーグ優勝を果たした翌々日の10月10日に、中川は横浜市戸塚区で生まれた。

 生粋のベイスターズファン。移籍1年目で26年ぶりの日本シリーズ制覇に貢献した美しきアンダースローは、いかにして誕生したのだろうか。

 父親の貴成さんは、神奈川の古豪である横浜商高で好打者として活躍した選手だったが、当初は息子に野球をやらせるつもりはなかったという。自分が野球で苦しい思いをしてきたからこその親心だった。将来はスポーツをやるならばゴルファーやレーサーになってほしいと思っていたと言うが、中川は、小学1年生のときに4つ上の姉の友人の誘いもあり「僕は野球をやりたい!」と、親の前で宣言をした。そして貴成さんが監督を務める少年野球チームに入団した。

 中川は、苦笑しながら当時を振り返る。

「そうしたら父は、『やるならばとことんやるぞ!』と言い、地獄の日々が始まったんですよ……。父はよく『野球部員として試合でグラウンドに出てプレーしている姿が見たい』といったことを話していましたね」

 選手である以上、熾烈(しれつ)な競争を勝ち抜き、グラウンドでプレーしなければいけない。そこは名門校出身の貴成さんならではの切なる思いがあったのだろう。

 特訓は週末のチーム練習のみならず平日にも及んだ。

「父は自営業で自動車整備工場を営んでいるのですが、学校から帰ると、すぐに来いと言われてピッチング練習にランニング、ティーバッティングといった具合の毎日で、本当にきつかったんです……」

 特訓のおかげで技術向上や体力アップはしたが、小柄だったこともあり、突き抜けた存在にはなれなかった。

 そして小学6年生のとき、青天の霹靂(へきれき)ともいえる衝撃が中川を襲う。

 それはロッテで、主力の先発投手として活躍していたサブマリンの渡辺俊介の姿だった。

 しなやかな動作から投じられる、地を這い、浮き上がり、打者を手玉に取るスマートなピッチング。その優美さとカッコよさに、中川の目はくぎ付けになった。

「僕はプロ野球選手になりたかったんで、なるならばほかの人と違う武器を持たなければいけないと思っていたんです。だから、もうこれをやるしかないって」

 幼いときの思い込みというのは一途で強いものだ。中川は、渡辺の投球を動画で何度も見ては、探り探り、ひたすら投げ込んだ。アンダースローに関しては、いくら野球に造詣の深い父親も門外漢。ともに一から歩むしかなかった。

 独学でひたすら練習を重ね、ようやく形になり試合に使ってもらえるようになったのは、横浜泉シニアに所属をしていた中学3年生のときだった。身長が急激に伸びて現在と同じくらいになり、長い四肢から繰り出されるアンダースローは、地元では目立つ存在だった。

 高校は・・・

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苦悩しながらもプロ野球選手としてファンの期待に応え、ひたむきにプレーする選手に焦点を当てた読み物。

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