3月28日、中日との今季開幕戦。5対0とリードした9回表。最後にマウンドへ上がるのは果たして――。グラブで顔を隠していたが、ファンはすぐに誰か分かった。597日ぶりの一軍マウンドで躍動し、四球のあと3者連続三振。頼もしきリリーバーの帰還で、完全優勝へ欠かせないピースが埋まった。 取材・構成=早川大介 写真=兼村竜介、BBM 決断と再起
2024年5月、DeNAは入江大生が右肩のクリーニング手術をしたことを発表した。23年夏以降、ファームでの調整が続いていたが、復活へ向けての決断。このときから25年へ向けた戦いが始まった。 ――昨年5月に右肩のクリーニング手術を行いました。プロ1年目の右肘に続き2回目の手術でしたが、決断した経緯を聞かせてください。
入江 決断というよりも、2023年の春キャンプくらいから右肩に違和感がありました。最初は我慢して投げていたんですけど、パフォーマンスも伴わず、そうしたら投げられなくなってしまった。その年の8月ごろに登録を抹消されて、そこからリハビリをしていました。ただ、そのときは投げることができた時期もあったけど、万全でないと投げられない。やはりリリーフピッチャーというのはコンディションが万全でなくても投げなくてはいけないポジションですし、それができないなら手術するしかないと判断しました。
――ただ、場所が肩だけに不安もあったのではないでしょうか。
入江 そうですね。肩を手術すると球速が戻らなかったり、パフォーマンスが上がらなかったりという話も聞いていましたが、手術しなきゃ投げられなかった。もうするしかない状況でした。肩の手術では、ベネット骨棘の切除、関節唇のクリーニング、そして関節を包んで保護する『関節包』という組織が緩かったので、それを縫い止める手術をしました。この関節包の手術はあまり症例がなく、それに術後に可動域が制限されてしまうんです。ただ、それをしないと将来的に再び投げられなくなってしまうかもしれなかったので、昨年5月末に踏み切りました。
――最初は違和感も大きかったのではないでしょうか。
入江 その部分が最初は難航したというか。自分で出そうとしている可動域まで動かず、無理をしてしまうと痛みが出るので、少しずつ可動域を広げていく。もう1日1歩という感覚です。で、少しでもエラーが出ると3歩くらい下がる。それの繰り返しでした。リハビリ中は可動域のなかで投げることと合わせて、少しずつ球に力を込め、ゲームレベルに近づけることをやっていきました。
――実際に復帰に向けた本格的なトレーニングに入れるようになったのはいつごろだったのでしょうか。
入江 今年の年明けくらいです。
――それでは去年のポストシーズンはリハビリ中。チームの日本一というのはどのように見ていたのでしょうか。
入江 もちろんうれしかったですが、やっぱり悔しさがありました。それに、夏場の厳しい時期に自分は力になれなかった。リハビリが終わって、家に帰ってご飯を食べながら仲間が戦っている試合を見る。この生活が続くのは本当にキツかった。腐りそうな時期もありましたが、一軍のマウンドに戻る、絶対にやってやるぞと言う反骨心と共に、桑原(
桑原義行)二軍監督(兼投手コーディネーター)や入来(
入来祐作)二軍投手コーチ兼アシスタント投手コーディネーター兼投手コーチ、康晃(
山崎康晃)さん、宮崎(
宮崎敏郎)さんなどいろんな方に声を掛けてもらい・・・
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