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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

広野功(中日ほか)インタビュー<1>“甲府の小天狗”の鼻を専用バットでへし折る逆転満塁サヨナラHR「有頂天でしたよ」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からは元中日ほかの広野功さんです。まずは本塁打タイ記録(当時)に並んだ東京六大学時代、劇的な一発を放った(第1次)中日時代のお話を伺いました。
文=落合修一

広野功


学業と東京五輪と学生運動


──どこから話を始めましょう。慶大時代に、長嶋茂雄選手(立大)の通算8本塁打のリーグ記録(当時)に並んだ件から行きますか。

広野 僕が誇れるのは2年間で打ったことです。長嶋さんは1年生のときからレギュラーでしたが、僕は3年生になってから出た。慶大の監督だった前田祐吉さんが「野球部員である前に塾生であれ。1、2年生は学業優先の生活をしなさい」という方針だったのです。

──3年生のとき(1964年)に東京五輪に出場したんですよね。

広野 野球を公開競技としてやることになって、アメリカの大学生選抜チームが来日。日本も大学生選抜チームが組まれたんです(編注・社会人選抜チームも組まれた)。あの年は大学野球選手権で駒大が優勝したので、大下剛史など駒大中心のメンバーでした。ほかには土井正三さん(立大)、武上四郎さん(中大)、長池徳二(法大)などもいました。急に決まったのでユニフォームは駒大のもの。帽子だけ「K」のところをJAPANの「J」にしていました。

──試合はどうだったのですか。

広野 引き分けだったかな。僕は四番を打ちました。開会式の次の日(10月11日)に国立競技場の隣の神宮球場だったのですが、結構お客さんが入っていましたよ。

──五輪史上初の野球の試合だったわけですね。

広野 その後、3年秋のシーズンが終わるころに学生運動が盛んになるんです。慶大も例外ではありません。部活が中止になったので慶大生の決起集会に参加したら学生が次々に・・・

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