昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からは巨人、近鉄で渋い左打者として活躍した淡口憲治さん。初回は、プロ入りまでのアマチュア時代のお話です。 文=落合修一 
淡口憲治
山本功児先輩と羽田耕一後輩
──兵庫県のご出身なんですよね。
淡口 徳島で生まれ、3歳のときに引っ越して、それからは西宮です。サラリーマンの家庭で育ちまして、西宮北口のマンションに住んでいました。阪急ブレーブス(現
オリックス)の本拠地だった西宮球場の隣と言っていいくらいに近かったのですが、僕は
阪神ファンでしたね。
──野球を始めたきっかけは。
淡口 小学校に上がる前に、親父がグラブを買ってくれたんですよ。まだ手が小さかったからブカブカだったのですが、そうなると上級生たちの野球チームに入りたいじゃないですか。でも、小さいから入れてくれない。ところがそのチームには、捕手のマスクを持っている子がいなかったんですよ。それで親父に頼み込んでマスクを買ってもらって、チームに入れてもらいました。
──そこまでしてでも、入りたかったんですね。
淡口 そうですね。入団しても、練習の最後のほうにちょっと打たせてもらうだけでした。それでも、楽しかったですね。
──そのころから左打ちだったのですか。
淡口 打撃以外は生活すべてが右利きなのですが、バッティングだけは左のほうがしっくり来たんですよ。だから最初から右投げ左打ちでした。そのチームに入って、成長していくうちに体も大きくなり、上級生になるころには投手と遊撃手を任されるようになりました。
──中学では野球部ですか。
淡口 はい。神戸市立本山中学校では野球部に入りました。軟式です。そこでも投手と遊撃手をやって、試合を見に来た三田学園高の監督さんが誘ってくれました。それが三田学園高に入ったきっかけです。三田学園高は僕が中3の春(1967年)に・・・
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