昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回は、名打撃コーチとして数々の打者を指導してきた内田順三さんに、ヤクルト、日本ハム、広島で過ごした現役選手時代の思い出を伺いました。 文=落合修一 
内田順三
人生初のバントで甲子園
──生い立ちから教えてください。
内田 静岡県三島市内の洋品店で生まれ育ちました。野球との出会いは、子どものころに2歳上の兄貴に付いていって遊んだのがきっかけ。小さいときに右手を骨折して左利きになったので、野球は最初から左です。中学で野球部に入り、初めて本格的なチームに所属しました。
──中学で初めて、組織的な野球を体験したわけですね。
内田 と言っても、練習に出るのは週に1回か2回くらい。やんちゃだったので部員じゃないのにバレーボール部に顔を出したりして、遊び歩いていました。大会が近くなると野球部の友人が呼びに来て、連れ戻される。大して野球の練習をしていなくても大会になると主力として出させてもらい、結構打ちました。
──実力があったのですね。
内田 なぜか、できちゃったんですよね。打撃練習をするとライトの向こうの校舎の3階のガラスを割っちゃうものだから、僕が打つときだけ三塁ベースのあたりから投手が投げました。それなら引っ張り専門の僕が思い切り打っても打球がセンター方向に行くから、ガラスを割らない。
──高校は、どのように?
内田 東海大一高(現東海大静岡翔洋高)という新しめの私立校が甲子園初出場を狙っていて、誘われたので進学することにしました。三島から清水まで1時間くらい鈍行の電車に乗って、清水からバスに乗って三保の松原の近くの学校まで30分くらい。当初は自宅から通っていました。途中で寮ができましたけど。
──高校野球の思い出は。
内田 僕は映画が好きだったから練習が終わると・・・
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