昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。大洋・横浜で先発、リリーフと大車輪の活躍だった齊藤明雄さんの最終回は、引退するまでのお話を伺いました。 文=落合修一 齊藤明雄
抑え投手なのに規定投球回に到達
──先発投手として1978年から3年連続2ケタ勝利を挙げた齊藤さんが、抑えに転向したきっかけは。
齊藤 監督が
関根潤三さんに代わったのです(82年)。開幕カードが
阪神戦だったのですが僕と遠藤(
遠藤一彦)が呼ばれ、開幕投手は僕、2戦目は遠藤で行くと。しかしそれ以降、
巨人、
広島と続く最初の3つのカードはどちらかに無理をさせるぞ、ベンチに入れるからそのつもりでいろと言われました。で、開幕戦(4月3日、横浜)は8回2失点に抑え、
小林繁さんの敬遠球の暴投でサヨナラ勝ち。その次の巨人戦では僕がリリーフして4イニングを投げ、広島戦では2試合連続で終盤に逆転して最終回に投げ、なし崩し的に抑えに定着しました。5月くらいに先発に戻るかと打診されたのですが、チームがうまく回っているのでこのままでいいですよと。
──そういう感じで始まったのですか。普通はリリーフ転向なら春季キャンプからそのつもりで調整しますよね。
齊藤 その前年(81年)は先発もリリーフも両方やって5勝15敗10セーブだったので、先発よりリリーフに適性があると見られていたのかもしれません。僕は淡々と投げているように見えて、勝負どころでは気持ちが入りますから。
──それから6年間、抑え専門。
齊藤 84年のシーズン中に関根さんがその年限りでやめることになり、僕も3年間抑えをやっていたのでこれ以上やったら壊れるから翌年は先発復帰だと投手コーチの
小谷正勝さんに言われ、試験的に巨人戦で先発して完封勝利を挙げました(84年9月20日、横浜)。しかし、その秋に就任した
近藤貞雄新監督から「お前は来年どうしたい?」と聞かれ、「どちらでもいいです。監督に従います」と答えたら、「今から新しい抑え投手をつくるのは大変だなあ……」と言われたので、「じゃあ、いいですよ。来年も抑えをやりますよ」となりました。強制されたわけではなく、お互いに納得していましたね。
──当時の抑えは「火消し男」と言われ、今みたいに9回の頭からではなくピンチの場面に登板することが多かったですよね。
齊藤 今で言う「回またぎ」は普通でした。僕は82年、開幕戦以外に先発しなかったのに・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン