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あの日、あのとき、あの場所で 球界の記念日にタイムスリップ

<1999年5月22日>テスト入団で古巣に戻った苦労人が10年ぶりの白星「ロッテでの打者経験は無駄じゃなかった」

 

古巣・阪神に復帰して2年目である1999年、遠山奬志[左]は「松井秀喜キラー」としての役割を果たし、5月22日の巨人戦[甲子園]で10年ぶりの勝利投手になった[右はルーキー・福原忍]


松井秀喜は言った「顔も見たくない」


 打率.304、42本塁打、95打点。これが1999年の松井秀喜(巨人)の成績である。

 本塁打王こそペタジーニ(ヤクルト)に譲ったものの、自身初のホームラン40本超えを果たしたゴジラは、25歳にして球界を代表するスラッガーの座に君臨していた。その松井をして「顔も見たくないし、名前も思い出したくないですね……」と言わしめたサウスポーがいた。

 阪神のリリーフ、遠山奬志である。

 サイドスローから放たれるストレートは130キロ台。しかし左打者の内角に鋭く食い込むシュートはこの年のセ・リーグで猛威を振るった。特に松井相手にはめっぽう強かった。対戦成績は13打数0安打6奪三振。1本の安打も許さなかった。球界の若きスーパースターを完璧に封じ、淡々とベンチに引き揚げる32歳の背中に、トラファンは歓喜の拍手を送った。その拍手は、眼前のピッチングだけではなく、あるいは遠山の人生そのものに向けてのものだったのかもしれない。

 遠山は数奇な球歴を歩んだ選手である。86年、遠山はドラフト1位で八代一高から阪神に入団した。すると1年目から8勝をマーク。その活躍ぶりに加え、ふてぶてしいと評された態度と同じ左腕であることから、阪神伝説の剛腕になぞらえ「江夏(江夏豊)二世」と呼ばれた。将来のエースと期待された投手だった。

 しかしここから遠山の野球人生は暗転する。肩を痛めたことから翌87年は0勝に終わると、その後も成績は低迷。わずか7試合の登板に終わった90年オフに高橋慶彦とのトレードでロッテに放出されたのだ。ここでも勝利を挙げることはできず、95年からは打者に転向する。96年にはイースタン・リーグ最多の99安打を放つなど二軍では一定の成果を残したが・・・

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