1975年の初Vの歓喜から黄金時代を築き、一時、低迷もあったが、いまや3連覇を目前と2度目の黄金時代を謳歌している。ここでは、その8回の優勝をプレーバックする。 
75年優勝を決め、お立ち台で絶叫する山本浩二。“普通の優勝”ではなかった
後楽園での感動
秋の日はつるべ落とし。しかも、もう10月も半ばだ。時計は午後5時をゆうに回り、空は暗闇に包まれ始めていた。
後楽園球場の8基の照明に灯が入り、内野のグリーンの芝生がきれいに浮かび上がった。
1対0で迎えた9回表に
ホプキンスの3ランが出て、首位
広島が最下位
巨人を引き離し、4対0とリードした。広島が勝てば、ついに悲願の初優勝だ。
この日の後楽園球場は7割方がカープファンのように見えた。気の早いファンは早くもスタンドで「優勝バンザイ! バンザイ!」と連呼し、盛り上がっている。
9回裏、巨人最後の攻撃。マウンドの
金城基泰が抑えれば優勝だ。先発の
外木場義郎をリリーフした金城は、前年オフに交通事故を起こし、再起不能とも言われながら奇跡の復活を遂げたアンダーハンドだ。外木場は勝利投手となれば、自身初の20勝に到達する。
2アウトとし、打席には
柴田勲。4球目、柴田のバットがとらえた打球は力なくレフトへ飛ぶ。
水谷実雄が硬い表情で追い、しっかりとそれをつかんだ。その瞬間、球場が歓喜の声で“爆発”した。マウンドに向かって全ナインが走り、外野スタンドから次々ファンがなだれ込む。
古葉竹識監督がナインとファンが入り交じった胴上げで宙を舞った。
お立ち台でマイクを向けられた山本浩二は「もうタイトルもなにもいらない。これで十分です。ただうれしい……」。そう言って号泣しながら腕を突き上げた。
「選手が僕を引っ張ってくれました。苦しいときも選手が僕を引っ張ってくれました。よくやってくれました」
古葉監督が、また泣きながら質問に答える。ナインもスタッフもファンも誰もかれもが笑顔でボロボロと涙を流していた。
それは遠く離れた広島も同じだ。あちこちで涙ながらのバンザイの声が起こり、勝利を喜ぶ市民たちが夜通し祝杯をあげた。

大混乱の中で古葉監督を胴上げ
市民とともに
当時広島は球団創設26年目で、Aクラスは68年の3位だけ。しかも、この前年まで3年連続最下位で、いずれもオフに監督が交代している。
特定の親会社を持たぬ市民球団として誕生。創設当時は資金難から何度も球団解散のピンチがあった。それでも原爆で大きな被害を受けた人たちは、自らの復興への思いを球団に重ねた。まるで自分たちの家族であるかのように深い愛情を注ぎ、樽募金などで必死に支援。なかなか形にならない“成長”を見守ってきた。その過程が分からなければ、この夜、広島を包んだ感動は分からないだろう。間違いなく、プロ野球史上、もっとも多くのファンが涙を流した優勝だった。
これまでのチームの歴史同様、このシーズンもまた、決して順風満帆ではなかった。
開幕時の監督は古葉ではなかった。前年、打撃コーチを務めていたジョー・ルーツが就任。日系人以外の米国籍の監督は球界で初めてだった。ルーツは選手に“戦う姿勢”を要求。大胆なトレードで血の入れ替えを行うとともに、帽子とヘルメットに赤を導入した。さらに自ら動き、新外国人シェーンとホプキンスを獲得すると、ホプキンスが一塁しか守れないこともあり、それまでの一塁手・
衣笠祥雄を説得し、サードにコンバートさせた。
しかし、ルーツは日本球界の審判、さらには球団フロントへの不信感もあって、わずか15試合で退任。
野崎泰一監督代行を挟んで就任したのが、内野守備コーチだった39歳の古葉だ。生え抜きのスターだったが、選手生活晩年、南海へ放出され、そこで現役引退。結果的には、
野村克也兼任監督の“シンキング・ベースボール”を学び、74年に復帰していた。
5月あたりから言われ始めた「赤ヘル旋風」の夏のハイライトがオールスターだ。
7月19日、甲子園の第1戦で全セの三番・山本浩、六番・衣笠が2打席連続のアベック弾。勢いは後半戦になっても増す一方も、前年の王者・
中日も踏ん張り優勝決定は129試合目だった(130試合制)。
MVPは首位打者も獲得した山本浩。ただ、リーグ優勝で完全に燃え尽きたのか、初めての日本シリーズは阪急相手に0勝4敗2分で敗れた。夢は未完。ただし、この年に関してはそれも仕方あるまい。それほど、すさまじい優勝だったのだから。