春の敗戦が糧となった。2001年夏の甲子園では大会屈指の強力打線が破壊力を存分に発揮。エース右腕はかつてない疲労に襲われながらも、自身の投球を貫き、日本一の胴上げ投手となった。 取材・構成=富田庸 写真=大泉謙也、BBM 
21世紀最初の夏の甲子園を制した日大三。その中心には近藤[左手前から2人目]がいた
春の敗戦をきっかけに
高校野球で目指すところと言えば、やっぱり甲子園。それが3年春にかない、センバツで球場に入った瞬間のテンションの高ぶりというのは、ものすごく感じました。あこがれていた甲子園のマウンドはとても投げやすく、良い意味で自分の空間をつくれたなと思っています。
この大会では結果として3回戦で東福岡高(福岡)に敗れたわけですが、力負けではなく、自分たちのミスから失点を重ねるという、負けるときにありがちなパターンだったんです。原因がありながら、対応できなかった。振り返れば反省はできますが、試合中は「負けちゃうな」、そして「負けちゃったな」という感じで。
でも、試合後のミーティングで小倉全由監督が「お前らなら、夏の甲子園に出てくれば優勝できる」と言ったんです。そのときは負けた際の励ましに過ぎないと思っていたんですけど、当時、僕らに見えなかったものが監督には見えていたのでしょう。優勝できるだけの力があったことを、僕らが感じていなかった。
夏に向けて、練習への熱はさらに高まりました。練習量ならほかのどのチームにも負けないという自負はありましたが、ウチは練習時間が長いだけじゃないんです。例えば春の敗因となった守備をテーマに取り組むとしたら、それこそ朝から晩まで徹底して守備練習をしました。「また守備か……」と思うことはあっても、小倉監督に「やることは分かっているだろ? お前らは守備で負けたんだろ?」と言われたら、やるしかありません。
そして西東京大会を迎えたとき、チーム全員に共通認識が芽生えていました。決して他チームを見下すわけではないんですけど、「東京で苦戦しているようでは、甲子園で勝てるわけがない」と。それは過信などではなく、練習量に裏打ちされた自信でした。
西東京大会では初戦から準決勝まで、無失点の
コールド勝ち。だから決勝も同じリズムで戦えるのではないかという思いがありました。この試合は9対6。勝ちはしたけど、スッキリ勝てなかった。でも、
トントン拍子で行っていたら、甲子園でつまずいたときに切り替えができなかったかもしれません。
忘れられないシーン
夏の甲子園では全6試合に投げさせてもらいました(準々決勝以外は先発)。もちろん疲れはありましたけど、それよりも「投げたいな」という気持ちが上回っていました。ただ、汗が流れ出る夏の暑さ、戦いに勝っていくための集中力。勝ち上がるごとに感じたことのない疲労感は増しましたね。
投げた次の日は全身がバリバリ。今でこそ熱中症対策や水分補給などが叫ばれており、リカバリー方法なども心得ていますけど、当時は体力がないからしんどいのだろうとか、体の内面への意識はそれほどなかったです。でも、日々の苦しい練習を乗り越えたからこそ、その状態でも投げられたのかもしれません。
チームメートのみんなが口をそろえて「苦しかった」と振り返るのは、準決勝の横浜高(神奈川)戦ですね。リードしながら終盤に追い上げられるという、西東京大会決勝と同じ展開。3学年上の“松坂世代”に夢中になったし、応援が面白かったので中学時代、横浜スタジアムに何度も応援に行ったほど。その「横浜高校」に勝てたのは大きかったです。
近江高(滋賀)との決勝戦は、台風の影響もあって1日延びました。疲労を少し回復させることができたし、決勝までの時間を味わえたので良かったです。僕としては、最後の最後に自分のピッチングができたと感じています。9回二死の場面、最後の打球は二塁手の都築克幸(元
中日)が処理しました。彼はセンバツで3失策しており、春以降、最も厳しい指導を受けていたんです。そんな中で励まし合いながらやってきた結果、最後に都築が全国制覇を決めるアウトを取った。これはやってきた僕らにしか分からない感動的なシーンでしたね。

まさに満身創痍の状態だったが、夏の甲子園決勝では見事な完投勝利で歓喜に浸った
PROFILE こんどう・かずき●1983年7月8日生まれ。神奈川県出身。183cm80kg。右投右打。日大三高では3年時の2001年に春夏連続で甲子園に出場し、同夏に同校初の全国制覇を達成。02年ドラフト7巡目で近鉄に入団。05年球界再編による分配ドラフトで
オリックスへ。08年に自身初の2ケタ勝利を挙げるも、以降は右ヒジの故障もあり一時は育成契約に。16年7月、トレードにより
ヤクルトへ移籍。18年にリーグ最多の74試合に登板し、42ホールドポイントを挙げて最優秀中継ぎのタイトルを獲得した