高卒ルーキーの鮮烈デビューと言えば、近藤真一のインパクトが強烈だった。18歳と11カ月の若者が史上初の初登板ノーヒットノーラン。しかも巨人を相手に成し遂げた快挙だけに衝撃度は増した。当時の様子をバッテリーを組んだ捕手・大石友好が回顧する。 取材・構成=滝川和臣 写真=BBM 
高卒新人では1936年の沢村栄治以来2人目の快挙だった(沢村は旧制中等学校中退)
ブルペンでの面構え
5回を終わってスコアボードの巨人の安打数を示すHは「0」。ナゴヤ球場は熱気とともに、異様な雰囲気に包まれていた。興奮の中心にいたのは、この日がプロ入り初登板の近藤真一だった。
1987年8月9日、首位巨人と3.5ゲーム差の3位
中日による3連戦の3戦目。先発ローテーションの谷間となった中日の
星野仙一監督は、前日に一軍登録したばかりの高卒ルーキー、近藤を先発に抜てきした。「試合前の練習のときに言われた」という近藤に対して、バッテリーを組む33歳の捕手、大石友好は前日に指揮官から声を掛けられていた。
「星野さんに呼ばれて、『明日は近藤を投げさすから、しっかりリードしてやってくれ』と言われてね。巨人との天王山は、初戦に勝って2戦目が引き分け。カード負け越しはないからプレッシャーよりも、楽しみが大きかった。近藤がやられてもしょうがない、という開き直った気持ちだった」
近藤は愛知の享栄高で本格派左腕として鳴らし、3年春夏と甲子園に出場して注目を浴びた。86年秋のドラフトで5球団が1位指名で競合の末、就任直後の星野監督が当たりクジを引き当て、相思相愛の地元ドラゴンズに入団したのだった。
二軍でルーキーイヤーをスタートさせると、とことん走り込んで体をつくった。そのうえでフォーム修正をほどこすと、ファームですぐに頭角を現した。するとジュニア・オールスター出場を経て、8月に一軍から声が掛かった。デビュー当日、大石は試合前のブルペンで初めて近藤のボールを受けた。
「初めてボールを受けて、負けても仕方がないという気持ちは変わった。これはすごいぞと。投げるボールが高卒ルーキーのそれではなかったからね。コントロールはアバウトだったけれど、真っすぐは強いし、重い。カーブも切れた。ひょっとしたらいけるかもしれない、と感じさせてくれた。なによりあいつの・・・
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