監督特集の最後は歴代監督をタイプ別に分けていきたい。指揮官に問われる資質は闘志か戦略か、情か非情か──。答えの出ない問いを考えていく。 【名将の系列01】闘志の指揮官
過去、“闘将”の異名を取った男は多い。もちろん、それは気の短さや粗暴さを表すものではない。 最初に断っておくが、監督の系統分けは簡単ではない。そもそも勝利を求めて戦う指揮官はすべて“闘将”と言え、戦略を駆使せず、先々を考えて手を打たない監督もいない。あくまで1つの基準と思っていただきたい。
まず「闘志」という項目を挙げた。すぐさま思いつくのが、中日、阪神、楽天を指揮した星野仙一監督だ。鉄拳制裁を辞さず、乱闘になれば選手の先頭になって飛び出す。チームを強くするためなら功労選手もスパッと切った。2球団目、阪神の改革が鮮やかだった。2002年に就任。長い暗黒時代で負け犬根性が染みついたチームに対し、「俺は勝ちたいんや」と言い放つ。厳しい指導で選手のメンタルを変え、大型補強で容赦ない選手の入れ替えをし、2年目の03年の優勝につなげた。ただし、中日の2回、阪神の1回のリーグ優勝はいずれも日本シリーズで敗れ、初の日本一は13年の楽天。このときはかなり丸くなっていた。
日本一が遠かった男、西本幸雄監督もまた「闘将」の異名を取った。8度の優勝を誇り、星野監督同様、大毎、阪急、近鉄と指揮した3球団すべてで優勝の経験があるが、日本一には届いていない。大毎ではリーグ優勝を飾りながらオーナーとケンカしてクビになり、審判への猛抗議も多かった。近鉄時代は、試合中、ベンチで選手を平手打ちにした逸話もある。ただ、この男の闘志は、むしろ妥協せぬチームづくりに注がれた。血のにじむような猛練習に加え、時に怒鳴り、時に鉄拳を振るいながら弱かった阪急、近鉄を優勝に導き、阪急では自らの進退を選手に投票させたこともある。こうと決めたら曲げぬ頑固さは一貫して変わらず、野球への燃えたぎるような情熱、内に秘めた不器用な優しさがいつしか選手を心酔させた。
抗議が多かったと言えば、親分と呼ばれた
大沢啓二監督(
日本ハムほか)、アイデアマンの
近藤貞雄監督(中日ほか)をはじめ、
上田利治監督(阪急ほか)、
金田正一監督(
ロッテ)もいる。それぞれ戦う姿勢を選手に強く求める指揮官だった。
ただし、冒頭で触れたように、毎日のように勝ち負けの結果を突き付けられ、常に結果論の中にある監督業を淡々と続けられる人はいない。クールな監督も胸の中には常に熱いものがあり、06年、優勝を決めたあとの中日・
落合博満監督のように結実した際の涙になる。
【名将の系列02】深謀の指揮官
常に先々を見越し戦略を練るタイプ。時に非情さを感じさせることもある。 「深謀」の2文字には謀(はかりごと)の一文字がある。戦略や先読みは時に個を殺すことになり、非情に映ることもある。
策略家の指揮官として代表的なのはやはり
三原脩監督だろう。
巨人、西鉄、大洋、近鉄、
ヤクルトの監督を務めた球史に残る名将だ。深い洞察力に加え、ビルマ戦線で死にかけた経験もあったのだろうか、少し醒(さ)めたところがあり、腹が据わった方だったという。
水原茂の監督就任で、巨人を追われるように西鉄監督となり、野武士軍団を率いて巨人を倒し、3年連続日本一に輝く(1956~58年)。ただし、その名声を一気に高めたのは、60年に6年連続最下位だった大洋の監督となり、いきなり優勝、日本一となったときだ。三原監督いわく「超二流選手」たちを駆使した緻密な野球は「三原魔術」と言われ、流行語にもなっている。
三原監督の西鉄時代の愛弟子が・・・
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