中日時代は主にリリーフエースとして活躍し、移籍したロッテでも、最初の2年は最多セーブを記録。プロ10年目に先発に転向するとシーズン12勝をマークした。巧みな投球術で好成績を残した牛島和彦氏に話を聞いた。 構成=牧野正 写真=BBM 
3年目の1982年は53試合に登板して7勝4敗17セーブでリーグ優勝に貢献。左は捕手の中尾孝義
先発の勝ちを消すつらさ
入団したとき(1980年)は先発として期待されていて、2年目も先発をやってはいたんですが、あまり結果が出ませんでした。それで中継ぎで投げることが多くなったわけですが、そのほうが先発で投げるよりも結果が出る。それで3年目に当時の近藤(
近藤貞雄)監督から「リリーフをやれ」と言われました。また先発を任せられるようにと思っていましたけど、抑えのチャンスをもらえたわけですから、それをものにしたいと必死でした。
中継ぎは自分の出番がいつになるのか分からない。どんな場面での登板になるのか読みづらかったのですが、抑えは終盤なので分かりやすい。自分の出番が自分で分かるようになったというのは気持ち的に楽になりました。3年目で先発、中継ぎ、抑えとすべて経験させてもらったことは大きかったですね。
ただ抑えと言っても、今みたいに9回の1イニング限定ではなく、2~3イニングも当たり前の時代でしたから、体の負担は大きく、3年目の途中でヒジを痛めてしまい、痛み止めを飲み、サポーターを巻いて投げ続けました。2年目に51試合、3年目に53試合ですから、よく投げたと思います。3年目は優勝もかかっていましたから。
体の負担、疲労という点ではもちろん抑えはつらかったんですが、それ以上につらかったのは・・・
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