辻発彦監督の下、2018、19年と強力打線を看板にリーグ連覇を果たした西武。しかし、1980年代の黄金時代は強力打線に加え、盤石の投手陣が大きな原動力になった。今季躍進の西武に投手王国はよみがえったのか。当時を知るOB解説者2人に尋ねてみた。 構成=井口英規 
西武時代の鹿取氏。スタミナ抜群の鉄腕だった
先発の頭数がそろっていた
圧巻の強さだった。
1982年からの13年間で、西武はパ・リーグで優勝11回、日本一8回を誇る。セ・リーグのチャンピオンは85年の
阪神と93年の
ヤクルト、94年の
巨人以外、日本シリーズで西武にすべて完膚なきまでに敗れ、ライオンズブルーのユニフォームはセの天敵となった。
AKD砲と言われた
秋山幸二、
清原和博、
デストラーデを擁する強力打線の印象が強いかもしれないが、忘れてはいけないのが、13年中11回がリーグ1位というチーム防御率。まさに投手王国だった。
しかし、その後、主力選手の放出、引退が相次ぎ、優勝の頻度が低くなる。さらに投手に関しては、2007年の
松坂大輔から始まり、
涌井秀章、
岸孝之、
菊池雄星とエースと呼ばれた男たちがFA、ポスティングで次々チームを離れ、投手力の低下が顕著になった。04年を最後にチーム防御率リーグ1位はなく、08年以来の優勝となった18、19年の連覇も防御率は4点台(いずれもリーグ6位)。
山川穂高、
森友哉ら山賊打線で打ち勝つ試合が多かった。
それが今季は一変。久びさにリーグ最高のチーム防御率2.60(8月25日現在)をマークする投手陣が好調のチームを支えている。
今回は黄金時代を知る2人に、かつての投手王国西武について、そして今の西武と当時を比較しての違いや共通点を語っていただいた。
まず、1988年、
中日から西武に移籍し、黄金期の外野の一角(ライト)で活躍した
平野謙氏の話から始めよう。
「僕が中日から西武に行ったのは1988年で、この年は西武も中日も優勝でした。中日も決して弱いチームではありませんでしたが、西武に比べたら甘さはありました。厳しさが足りない。だから時々しか優勝できなかったとも言えます。
西武には88年から93年までいましたが、この間、優勝というか日本一を逃したのが、89、93年だけ(93年はリーグ優勝はしている)。打線、投手力、守備、走塁と全部よかったですね。隙のないチームでした。
まさに投手王国でした。先発で久信(
渡辺久信)、公康(
工藤公康)、
郭泰源、あと東尾(
東尾修)さんはちょっと謹慎してたけど(笑)、セにいた僕でも名前がポンポン挙がりましたから。要は10勝は計算できる投手の頭数がいたということです。
88年は完投が多かったですね。先発したら完投、という時代ですし、久信や公康は投げたがりでしたから。泰源くらいかな。あまりしたそうじゃなかったのは(笑)。
変わったのが、90年からです。89年に近鉄に負けたのもあって監督の森(
森祇晶)さんも何か変えなきゃと思ったのか、巨人から鹿取が入ってきて抑えになった。ちょうど潮崎(
潮崎哲也)も新人で入って、先発やリリーフをしていた。そして(93年に)杉山(
杉山賢人)が入って、いわゆる“サンフレッチェ”が完成したわけです。
これが固まったことで、先発は6回まで抑えればとなって思い切りいけたし、逆に先発も安心して攻め、結果的に8回、9回と投げた面もあります」
平野氏の話に出てきたように、鹿取氏が巨人から西武入りしたのは90年だった。チームの世代交代もあったし、巨人が2期目の
藤田元司監督の下、先発完投を徹底したこともある。出番が激減した中で西武入りした鹿取氏は、同年、自身唯一の最優秀救援投手になっている。
「僕が西武に入ったときは・・・
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