週刊ベースボールONLINE

“トルネード旋風”から30年 HIDEO NOMO伝説

<近鉄時代の記憶/仲間たちの証言>NOMOを語ろう。吉井理人・光山英和・立花龍司が野茂との思い出を語る

 

野茂英雄が近鉄に在籍したのは1990年から94年までの5年間。その中で関係の深かった3人に野茂との思い出を語ってもらった。
(※2023年7月号『ベースボールマガジン別冊薫風号〜野茂英雄と近鉄バファローズ』から抜粋し、再編集したものです)
写真=BBM


3歳上の頼れる兄貴分・吉井理人の回想「コイツ、すごいなと」


吉井理人[投手](写真右)


 僕は箕島高から1984年にドラフト2位で近鉄に入団して、7年目を迎えるところでした。その当時、ドラフト1位で入ってくる投手がいたら、春季キャンプでじっと観察するわけです。大抵は「うん、負けてないな」と納得する(笑)。でも、野茂の場合は違いました。そのピッチングを見た瞬間に「あ、これは負けた……」と思いましたから(苦笑)。それほどすごいピッチングでした。

 僕からすると、本当にへんてこりんな投げ方なんですけどね。球が速いというより、グワァーと伸びてくる“強い”イメージ。とにかく「すごいな」という印象しかないです。よくあんなフォームで投げられるなという意味でも。こだわりがあるんだろうなと思って見ていました。

 立ち上がりが悪くて、フォアボール3つで無死満塁。いつもじゃないけど、高い確率でそんな展開になるんです。それでも三振3つ取ってベンチに帰ってくる。そんなピッチャーでした。2ケタ四死球を出しながら、完投や完封をしてしまう。だから、投手のテンポが悪いと勝てない、というのはウソなんです。野茂はテンポが悪かろうが、結果的に抑えてしまう。“昔ながらのエース”というオーラがあり、グラウンドで一番高いマウンド上に仁王立ちして、「俺が親分だ!」というオーラを出しまくりながら投げ続けていました。

 (野茂がメジャーに行くことは)絶対に無理でしょ! って思っていました。バリバリのチームの中心選手でFAの資格も何もない。球界をやめてアメリカになんて行けやしないと思っていたので。そうしたら本当に行っちゃった(苦笑)。コイツ、すごいなと。もう、野球ができなくなってもいいという覚悟で飛び出しているので。メジャー行きどころか、海すら渡れない可能性もあったんですよ、あのころは。1年くらい野球ができなくなるという可能性も十分にあったはずです。僕自身は近鉄時代に一度、(メジャーへの挑戦を)あきらめていたんです。野茂がメジャー行きを画策する姿を間近で見ていましたけど、自分にはそんな決断はできない、と。

 エースなので「野茂が投げる試合は絶対に負けられない」という空気はチーム全体にありました。大成する選手に共通する部分なんですけど、野球に対する好奇心が強いんですよね。加えて、人の成功を素直に喜べるような投手でした。そういう投手というのが・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

特集記事

特集記事

著名選手から知る人ぞ知る選手まで多様なラインナップでお届けするインビューや対談、掘り下げ記事。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング