1994年オフにメジャー・リーグ挑戦を表明し、95年に電撃的にドジャースと契約を結んだ。「到底及ばない場所」と思われていたメジャーに挑戦し、センセーショナルな活躍をしてみせた。独特なトルネード投法で現地ファンを魅了し、日本とメジャーの距離を近づけてくれた。あれから30年。彼の活躍によっていまやMLBが身近なものになったのは間違いない。 文=笹田幸嗣 写真=BBM、Getty Images 
メジャーデビュー年は前半だけで6連勝とエース級の働きをした。落差の大きいフォークと94マイル以上の真っすぐでメジャーの強打者を手玉にとった
ドジャースを選んだ理由「オマリーさんがいたから」
1995年2月12日。ロサンゼルスにはカリフォルニア・ブルーの青空が広がっていた。
この日、
野茂英雄はノーネクタイではあったものの紺のジャケットに身を包み、代理人のダン野村氏とともにドジャー・スタジアム左翼ポール際にあったピーター・
オマリー会長の部屋を訪ねていた。
契約金200万ドル(当時のレートで約2億2600万円)、年俸はメジャー昇格で10万9000ドル(約1200万円)、マイナーの場合は6万ドル(約678万円)。彼は契約書に自分の名前と日付を書き込んだ。
オマリー会長は挑戦をたたえた。
「日本からやってきた26歳の若者がメジャー・リーグの野球に挑戦しようとしている。われわれは彼の決断に敬意を表し、彼の挑戦を全力でサポートする」
野茂はドジャースを選んだ理由をシンプルに話した。
「オマリーさんがいたからです」
メジャー球団との契約を目指し、アメリカへ向かったのは1月30日。最初に向かった地はシアトルだった。マリナーズは2年総額150万ドル(約1億6950万円)のメジャー契約を提示した。次のサンフランシスコでは2年総額180万ドル(約2億340万円)。ジャイアンツもメジャー契約をオファーした。そして、ロサンゼルスへと向かった。
この時点ではドジャースとの交渉予定はまだなかった。数日後にニューヨークへ向かい、
ヤンキースと交渉を行う予定になっていたのだ。代理人のダン野村氏は「スタイン・ブレーナー・オーナーは獲得にノリノリですよ」と自信を見せている。その情報をキャッチしたのがドジャース。彼らの動きは早かった。
野球の国際化を目指すドジャースは79年にメキシコの
フェルナンド・バレンズエラを獲得。80年代には「フェルナンド・マニア」なる言葉を呼び、スタジアムには多くのメキシコ人が集まった。94年には韓国アマチュア球界のスーパースターだった
パク・チャンホ(朴贊浩)との契約にも成功していた。
多種多様な人種が集まるロサンゼルスではメキシコ系、韓国系のコミュニティーは全米でもトップの規模を誇る。それは日系人社会も同様だ。ドジャースは日本球界史上初の新人から4年連続最多勝、最多奪三振王の実績を持つ26歳の獲得に本腰を入れた。その獲得にオマリーオーナーが直々に当たった。
野茂はオマリー氏が持つ・・・
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