日米通算2730安打。昨季限りでユニフォームを脱いだ希代のヒットメーカーも、東京六大学野球の出身者だ。早大ではレギュラーに定着した3年春からリーグ4連覇。野村徹監督の下、心技体を鍛え抜いて力を伸ばした。学びは野球人生の財産になった。濃密な日々を振り返る。 取材・構成=小林篤 写真=井田新輔、BBM 
今年1月にヤクルトGM特別補佐に就任。仕事着はユニフォームからスーツへと変わっている[写真=井田新輔]
プロでも心は折れず
早大野球部の一員になったのは今から四半世紀前の2000年。宮崎県から上京し、名門大学で白球を追いかけた。1学年上には和田毅(元ソフトバンクほか)、同期には鳥谷敬(元阪神ほか)らそうそうたる顔ぶれがそろう中、俊足巧打の外野手として存在感を発揮。4年秋の10戦全勝とリーグ4連覇は早大史上初の快挙であり、黄金時代を築き上げた一員でもあった。プロ入り後の華々しい活躍の土台は、早大で過ごした4年間にあった。 現役時代は春、秋と大学時代を思い出すことがよくありました。スワローズは本拠地が神宮球場。ナイトゲームのため車を運転して球場入りする、サブグラウンドで練習する、そのときに球場から応援や歓声が聞こえてくるんです。いつもそばに東京六大学を感じることができたと言いますか、これが個人的にはすごく好きだったんです。そういった点も、スワローズでプレーして良かったなと思うことでした。プロになっても縁が切れていない、自分の中でずっとつながっている感じがありました。
東京六大学の存在を知ったのは、高校生になってからです。それまでも早稲田大学という名前こそ聞いたことがありましたが、宮崎で過ごしていたので、大学がどこにあるのかも知りませんでした。ただ、在学していた日向高校に早稲田(早大)の指定校推薦があり、それをきっかけに調べるようになりました。それが確か高校1年生のことです。テレビで早慶戦を見ましたし、特に覚えているのは高校3年(1999年)のときの全日本大学選手権。早稲田が決勝で青学(青学大)と戦ったんです。青学は石川さん(
石川雅規、当時2年)が、早大は藤井さん(
藤井秀悟、当時4年)に鎌田さん(
鎌田祐哉、当時3年)が投げていました(いずれも大卒でヤクルトに入団)。全国の中でもこの2校が強いんだという印象を、高校生のときに抱きましたね。
早稲田で過ごした日々は、野球人生において大きな財産となりました。野球の基礎を教わったような気がします。物事の考え方もそうですが、野球のいろはを学んだ4年間でした。いわゆる選手としての土台、ベースが早稲田で築かれたとも言えます。なので、プロ野球の世界に入ってから、ツラいことはたくさんありましたが、何か考え方が大きく変わるということはなかったです。
もちろん・・・
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