あの歓喜の記憶は、鮮明である。50年前、後楽園球場で悲願のセ・リーグ初優勝を、地元紙の記者として見届けた。1950年のチーム結成から幾多の難題を乗り越え、ペナントを手にした。現在も政財界や市民が一体となった「広島力」は、健在である。 文=永山貞義(元中国新聞記者) 写真=BBM 
わずか15試合でルーツ監督の退任以降、チームを継いだ古葉監督はカープを頂点へと導いた。後楽園に詰めかけた広島ファンの声援に応えた
戦後に誕生した背景
1975年10月15日、後楽園球場で行われた
巨人対広島戦。当時、カープ担当として、この現場に居合わせた記者の目には、今もカープが悲願の優勝を決めた後の残像が鮮明に保存されている。
その時、グラウンドにはファンがどっとなだれ込み、もみくちゃの中で
古葉竹識監督の体が宙を舞った。スタンドから一斉に飛んだ5色のテープは、球団創設から26年間の汗と涙が晴れ上がった後に、くっきりと浮かぶ虹のようだった。いつまでも続く万歳の嵐。空には半月がカープのV1を祝福するかのように輝いていた。この歓喜の時から50年。その間、9度のリーグ優勝という栄光の道は、こうした情景から歩み始めた。
くしくも今年は被爆80年。こんな区切りを奇縁と感じるのもカープは、その副産物だったからだろう。それは1949年オフ。元衆院議員、谷川昇氏らが「プロ野球は焦土の中から立ち上がった市民の精神的慰安と結束に役立つ」と発案し、広島県と県下5市の出資金などによって、球団は結成されたのだった。
しかし、親会社がなかったゆえに、50年の1年目には早くも選手の給料が払えなくなるほどの資金不足に陥り、翌年のシーズン前には、大洋への身売りが1度は決まった。このピンチは石本秀一監督が後援会づくりに走り、県民の株券購入やたる募金などの援助で救ったが、以後も「貧乏球団」の立ち位置に変わりはなく、チームは低位をさまよい続けた。
独自の概念を推進
こうした状況を開拓したのは、
根本陸夫と言っていい。監督に任命されたのが68年。球団の株を東洋工業(現マツダ)と創業家の松田家がすべて買い取って経営を一本化し、チーム名も「広島東洋カープ」と改めた時だった。根本は後年、
西武、ダイエーのゼネラルマネジャー時代に「らつ腕」と称されたほどのチームづくりの名手である。この時、着手した一手に早くもその片鱗(へんりん)が見えた。
改革策の第1弾は実績のなかった
安仁屋宗八、
外木場義郎、
衣笠祥雄を投打の主軸に抜てき。「安仁屋と外木場で30敗、衣笠で20敗」と勝ちゲーム数より、捨てゲーム数を計算して試合に臨んだ。こんな大胆な策に若手は光を見いだし、安仁屋が23勝、外木場が21勝すれば、衣笠も打率.276、21本塁打と望外の成績をマーク。チームも球団創設以来、3位と初めてAクラス入りを果たしたのである。そして70年には
関根潤三、
広岡達朗氏をコーチとして招へいし、さらなる若手育成策を打ち出したのも、根本監督には「若者優秀論」という独自の概念が根付いていたからだろう。
そんな思想によってまかれた種は、若者の調子の波が激しかったため、退陣した72年、さらに
別当薫監督の73年、
森永勝也監督の74年と3年連続最下位の成績が示すように、結実はしなかった。しかし・・・
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