
入団3年目。1960年の週刊ベースボールで、石原裕次郎氏と長嶋による新春放談を掲載した。ほぼ同世代で映画界、プロ野球界の昭和の大スターは「シゲオ」「裕ちゃん」と呼び合う仲だった
♪俺(おい)らはドラマー、やくざなドラマー、俺(おい)らがおこれば嵐を呼ぶぜ 石原裕次郎が『嵐を呼ぶ男』の主題歌を甘く切ない音色で歌っていた。1957年12月7日、立教大学のゴールデンボーイ・
長嶋茂雄が
巨人と正式契約を交わした。長嶋はプロ野球界に嵐を呼ぶ男だった。
翌58年4月5日、後楽園球場の開幕戦で、四番・長嶋は国鉄・
金田正一から4打席4三振に斬って取られた。だが、のちに金田は「三振に打ち取ったが、あのスイングスピードの速さと思い切り振ってくる積極的な姿勢。そのうち俺の手強いライバルとして立ちはだかるだろう」と語っている。
日本は高度経済成長期に突入し、好景気に沸いた。同年12月23日に完成した高さ333メートルの日本一高い東京タワーは、長嶋のプレーを全国ネットで中継するにふさわしいテレビ塔だった。
53年8月28日に日本テレビが開局すると、長嶋ブームによって次々と民放テレビ局が開局していった。長嶋はマスメディアを大きく変えたヒーローでもあった。
スポーツ各紙も部数を伸ばした。長嶋のデビューと前後して、週刊新潮、週刊文春が誕生した。
長嶋の大活躍を見越して58年4月に、野球専門誌・週刊ベースボールが創刊された。宰相・池田勇人が唱える所得倍増計画によって、プロ野球中継は街頭テレビからお茶の間のテレビへと移行していく。
翌59年に新入団の
王貞治が加わり、ON砲が誕生する。6月25日に後楽園球場の昭和天皇、皇后両陛下を迎えた天覧試合で、巨人は7回に王の2ランで同点に追いつくと、9回には長嶋がサヨナラ本塁打を放った。記念すべきONアベック本塁打の第1号だった。
スポーツ各紙の一面は連日、ONを中心にした巨人の話題で埋め尽くされた。雨でゲームが中止になった翌日も、移動日でゲームがなかった翌日も、1年間に約300日が、巨人の話題で一面が飾られた。テレビ、新聞をはじめとするマスメディアにとって長嶋は史上最大のキラーコンテンツだった。
週刊ベースボールも部数を伸ばした。V9黄金期に続き、長嶋が監督に就任した70年代半ばから後半へかけて実売20万部を記録。80年オフに「男のケジメです」と語り3年連続V逸の責任を取る形でユニフォームを脱いでからも、文化人・長嶋茂雄の人気は絶大だった。
嵐を呼ぶ男・長嶋が再びプロ野球ファンの面前に帰ってきた。92年オフ、翌年3月のサッカーJリーグ開幕に合わせて、プロ野球人気回復の切り札として、長嶋に白羽の矢が立てられたのだ。
指揮官に復帰すると星稜高の超大物・
松井秀喜をドラフト1位で4球団競合の末に引き当て、日米のプロ野球を代表するスターに育て上げた。
全国ネットで放映される巨人戦の視聴率も“大台”の20%以上を回復した。
94年に長嶋が自ら命名した10.8「国民的行事」でリーグ優勝を飾るとナゴヤ球場の夜空に舞った。2000年にはダイエーとのON決戦を制して日本一に輝いている。13年に愛弟子・松井とともに国民栄誉賞をダブル受賞したときの感動的シーンも記憶に残るところだ。
嵐を呼ぶ男にも、終焉を迎えるときが訪れた。今年6月3日、長嶋の訃報が日本列島を深い悲しみに包んだ。
ミスタープロ野球の栄光は週刊ベースボール4000号の軌跡と軌を一にしていたと言っても過言ではない。伝説のヒーロー・長嶋の記憶は未来永劫まで語り継がれることだろう。(文中敬称略)[文=池田哲雄(小社代表取締役社長)]