「ID野球」を前面に、監督在任9年でセ・リーグ制覇4度、日本一3度と黄金時代を築いた。選手たちが血眼になって記した「野村ノート」。そこには、勝利への徹底した探求心と裏付けがあった。 文=飯尾哲司 写真=BBM 
1989年10月19日。東京・新橋で監督就任会見が開かれた[左は桑原潤オーナー代行、右は相馬球団社長]
「ID野球」の本当の意味
「来年からわが
ヤクルト球団の監督をやっていただこうと思い、お願いにうかがいました。選手たちに『野球の真髄』を教えてやってください」(相馬和夫球団社長)
「承知しました。1年目に種をまき、2年目に水をやり、3年目に花を咲かせてみせましょう!」(
野村克也)
相馬はドラフト会議で競合した1位選手をことごとく引き当て、“黄金の左手”の異名を取ったヤクルトの球団社長だ。
野村監督は「ID野球」を標榜(ひょうぼう)したのだが、「データ活用・重視に英語名をつけてくれ」と中島国章通訳に依頼したところ「Import Data」と当てはめた。しかし、周囲がそれでは「データ盗み」と曲解されないかと心配し、徐々に「Important Data」にシフトしていった。しかし、厳密には前者なのである。
監督の分身
野村監督がまず着手したのは「監督の分身、試合の代理監督」である捕手の選定だ。“娘一人に婿八人”のことわざではないが、1990年春季米ユマキャンプには
八重樫幸雄、
秦真司、
中西親志、
飯田哲也、
野口寿浩、
君波隆祥、新人・
古田敦也らの正捕手候補が参加した。
「キャッチング、ブロッキング、スローイング。ワシが過去30年見てきた中でナンバーワンや。あとはワシがリードを教え込む」(野村監督)
「野村監督が30年間積み重ねてきたものを、タダで分けていただき感謝です」(古田)
監督就任1年目の90年は前年度より順位を落とす5位。自軍の攻撃時は試合そっちのけ、ベンチ前に・・・
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