開幕前の前評判は決して高くはなかった。しかし、見事にチームをまとめ上げて栄冠を勝ち取った。2001年、ツバメ軍団を飛翔させた“ミスタースワローズ”。飾らない人柄で、球界初の道産子監督は我慢と信頼をキーワードにセ・リーグを勝ち抜いた。 取材・構成=小林光男 写真=BBM 
2001年10月6日の横浜戦[横浜]でリーグ優勝を決め、ナインの手によって胴上げされた
スタメン8人が規定打席
現役時代は19年間、ヤクルト一筋でプレーして2000安打を達成した“小さな大打者”。コーチ、二軍監督としても6年間、ヤクルトのユニフォームを着た男が監督としてチームを率いることになったのは1999年だった。監督就任時の本誌インタビューで「監督の器ではない」と語っていたが3年目の2001年、見事にチームを頂点に導いている。 ──名将・
野村克也監督のあとに指揮官となり、プレッシャーはありましたか。
若松 プレッシャーというか、田口(田口周)球団社長に「来年から監督をやってもらう」と言われて、「大変なことになった」と。僕は打撃のことしか分からなかったし、監督というのは野球のすべてを知り尽くしている人がなると思っていましたから。でも、長年お世話になってきた球団から「頼む」と言われて、「何とか頑張ってみよう」と思いました。とにかく、まずは「ケガ人を出さない」ということに重点を置きましたね。
──99年の監督就任から4位、4位で3年目の01年に優勝。何かやり方を変えたところはあったのでしょうか。
若松 最初の2年間は動き過ぎた面がありました。でも、やっぱり担当コーチに任せないとダメだ、と。あまり口出しをしないようになり、打撃なら多少チェックしたり、投手なら状態を見ながらワンポイントアドバイスにとどめて。あと、攻撃面でもエンドランやバスターなどを仕掛け過ぎていたので、もう少し選手を信用してやってみようと思いましたね。
──01年はスタメン8人が規定打席に到達しましたが、二番・
宮本慎也選手は日本記録の67犠打と確実に走者を進めて得点を重ねました。
若松 今の野球とは全然違いますよね(笑)。前年までは二塁まで走者が進むけど、ワンヒットで生還できないケースが多かったのでキャンプから走塁面の練習に時間を費やしたことも大きかったです。稲葉(
稲葉篤紀)、本塁打王&打点王の2冠に輝いた
ペタジーニ、古田(
古田敦也)のクリーンアップも強力でした。
──六番には
岩村明憲選手、七番には
ラミレス選手と相手投手にとって息つく暇もありませんでした。
若松 来日1年目のラミレスは相当我慢しましたけどね。最初は真っすぐ系統だけを考えて打席に入っていて、ストライクからボールになる変化球にやられていましたけど・・・
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