大谷翔平が花巻東高に在籍した3年間、その存在は岩手県の高校球児たちの高い壁だった。公式戦で6度対戦し、3年夏の決勝で打ち勝ったチーム。岩手県球史に残る名勝負の裏で、選手は、指揮官は、未来の「世界一の選手」とどう戦ったのか――。 取材・文=相原礼以奈 写真=BBM 
花巻東高時代の大谷翔平
立ちはだかった壁
盛岡大付高が最初に花巻東高・大谷翔平と対戦したのは2010年春、大谷が入学したての1年時の春季県大会だった。08年から現在まで盛岡大付高を指揮する
関口清治監督は、当時の印象をこう振り返る。
「身長が高くてスラッとしていて、またリーチが長いので外のボールがよく届くバッターで、なかなか簡単に空振りを取れないなという印象はありました。体がまだまだ細かったですが、それでも『これはセンスあるな』という感じを受けました」
同年の秋季県大会では、投手・大谷と対峙する。当時すでに140キロを軽く超える球速に、まず度肝を抜かれた。「そのときは、バッターとしても左中間にタイムリーを打たれました。すでに投打の両面でポテンシャルがすごいなと。そして2年春には完投されて、1対3で負けた。だんだん体が強くなっていって、コントロールもまとまってきて、精度も高くなっていった印象です」。
進化していく相手を前に、チームの野球のスタイルを変える大きな決断をしたのが、11年の秋。県大会の準々決勝で花巻東高と対戦し、延長11回の熱戦の末に2対5で敗れる前後のことだ。大谷は故障のため登板回避していたものの、「冬を越えて大谷君が治って戻ってきたとき、大谷君に勝たないともう甲子園はない」という現実。当時のチームカラーであった「1点を取って守り勝つ野球」から一転、打ち勝つ野球への方向転換に踏み切った。
「大谷君は速いボールを持っているので、とにかく速球には絶対負けないように近距離バッティングを始めました。あとは打撃全体を見直して、いいピッチャーを打つには始動を早くしなきゃいけないと。そして当時、光星学院高(青森県、現八戸学院光星高)の総監督だった金沢成奉監督(現明秀日立高監督)に週1、2回アドバイスを受けていました」
180度の方針転換とともに、指揮官は「やれる、やれる」とポジティブな姿勢を貫き続けた。選手たちも監督の考えに発奮し、雪上バッティングなど冬場の過酷な練習を徐々に力に変えていった。
高校生の一冬は大きい。それは大谷にも同じことだった。関口監督は回想する。「3年になって、一気にまた体が大きくなった。球速は150キロを超えるようになって『うわ、速いな』と思っていた矢先、夏の大会(準決勝)の160キロでしたから。153とか4とかは想定していたんですが。もちろん体も良くなった分、バッターとしてもさらに振れるようになってきましたし。これはなかなか、全国でもいない選手なんだろうなと思いました」。想像を超える進化に、決勝を前にあらためて相手の計り知れなさを感じていた。
12年夏は・・・
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