2000年代後半から10年代にかけて、原辰徳監督の下で築かれた黄金期を代表する「ジャイアンツのエース」だ。だが、孤高の存在ではない。自らが先頭に立ち、投手陣をまとめ、引っ張っていく。それが左腕の、投手リーダーとしての在り方だった。 取材・構成=杉浦多夢 写真=兼村竜介、BBM 投手陣をまとめるために
ジャイアンツへの思いは人一倍、強い。高校3年時にオリックスからドラフト1位指名を受けるも、これを断り社会人野球の東京ガスへ。2003年秋のドラフトで自由獲得枠により指名を受けて念願だった巨人入りを果たした。3年目に初の2ケタ勝利をマークすると、07年は開幕投手を託される。徐々にエースへの階段を上がっていく時期と、2000年代を支えてくれた投手たちがチームを去っていくタイミングが重なる中で、リーダーとしての自覚が芽生えていく。その根底にあったのは、「まずは自分の成績を残すこと」という強い思いだった。 ──2004年に入団したときには
工藤公康さん、
高橋尚成さんという実績のある左腕が在籍していました。
内海 入団したばかりのころはもう、雲の上の存在でした。ただ、小さいころから同じ左ピッチャーというのは意識しましたね。野球をやり始めたときから、右ピッチャーよりも左ピッチャーのほうに目がいく。意識するというか、そういうふうに育ってきたので、同じ左ピッチャーには負けないぞというか、常にそういう目で見ていました。
──小さいころにあこがれていた左投手はいましたか。
内海 僕が子どものころは、やっぱり
中日の
山本昌さんとか今中(
今中慎二)さん、もちろん工藤さんもですね。今中さんの大きなカーブと真っすぐは、子ども心に「すごいな」と思っていましたし、純粋に「あんなふうになりたいな」と思って見ていました。
──その後に影響を受けた左投手はいたのでしょうか。
内海 そんなにいないんですけど、同じ北陸の七尾工高に同学年の森(森大輔)がいて、あいつは意識しました。同じように高校から社会人に進んで、同じ年に森はベイスターズに、僕はジャイアンツに入るという同じ道を歩んで。高校のときに対戦もしたんですけど、ポテンシャルがすごかった。正直、「負けているな」と感じていたので、そこからは「負けないぞ」という気持ちでやっていました。
──プロに入ってからはいかがですか。
内海 工藤さんもそうですけど、尚成さんには一緒に自主トレに行かせていただいて、「プロとは」というか、練習のやり方も含めてプロとしての過ごし方というのをすべて教えていただいたので、感謝しています。
──そこから「ジャイアンツのエース」への道を歩んでいくわけですが、エースとしての自覚が芽生えたのはいつごろだったのでしょうか。
内海 07年に初めて開幕投手を任されたんですけど・・・
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