歴代の助っ人の中で唯一日本プロ野球界のみで2000安打を放っているレジェンドだ。ヤクルトでは通算1184安打、日本一にも貢献し、年間200安打も放った。そして何より「アイーン!」「ゲッツ!」「ラミちゃんペッ!」などのパフォーマンスでも人気を博した。ファンに愛され、日本を愛し、ファンを愛したラミちゃんが、ヤクルト時代の思い出を語ってくれた。 取材・構成=椎屋博幸 写真=BBM 
タレント・志村けんのギャグ「アイーン!」のパフォーマンスをマネし、実力も発揮し、人気を集めた
最初は金額が最優先に
当時(2000年オフ)、ヤクルトからオファーをもらいました。このときの金額が、メジャーでのよりもはるかに多かったので、迷うことなく契約をして、日本に来ることになりました。
それまで日本の野球をまったく知らないというわけではなかったんですよ。当時、インディアンス(現ガーディアンズ)とは業務提携を結んでいたと思います。その関係で稲葉(
稲葉篤紀)さんや宮出(
宮出隆自)さんがオフに自主トレに来ていて、一緒に練習したりしていました。それと当時の打撃コーチだった
チャーリー・マニエルさんが日本で大活躍されたことを本人からも聞いていました。
彼からは、メジャーとは違う野球だとも聞いていましたから、まったく日本や日本野球と接点がなかったというわけではなかったんですね。それと当時のヤクルトスカウトの中島(中島国章=愛称・ルイジ)さんが、数年前から「君はすごくいい選手だから、日本に来たら活躍できるよ」と声を掛け続けてくれていたんです。もちろん、そう言われることはうれしかったのですが、最初はあまり真剣には聞いていませんでした(笑)。そして00年のオフに、実際にヤクルトからオファーを受けました。
中島さんは数年前(23年)に亡くなられて、葬儀にも行きましたけど、彼のそういう声掛けや、オファーがなければ、今の私はなかったと思っています。
私自身、ベネズエラのジャングルのような場所で育った人間なので(笑)、日本に行くこと自体に大きな懸念を抱いていたということはなかったですね。何よりも大金をもらえるということのほうが、私の中では大きなことでした。
たとえ1年間、ヤクルトで結果が出なくても、アメリカに戻ってマイアミで暮らせるくらい、当時にしては大きな金額でしたから、1年間ダメだったらそれでもいいか、という気持ちもありました。同時にメジャー・プレーヤーとして、どこか「日本にベースボールを教えてやる」くらいの気持ちで来日したのは事実です。そのような理由もあり、日本に行きたくないということはなかったですね。
家族の一員として歓迎され
01年の春季キャンプから参加しました。このときのヤクルトの雰囲気はすごくフレンドリーでしたしファミリー的で、みんな野球が大好きでしたね。同時に外国人に対する敬いをすごく感じました。みんなリスペクトしてくれるんです。初日から本当に手助けしてくれ、素晴らしい雰囲気で私を迎えてくれました。
私はラテン系の選手ですが、メジャーでは私と似たような実力の選手がたくさんプレーしており、その選手の中の一人でしかなかった。メジャー契約の選手がケガをしたときなどにメジャーに呼ばれるような選手の一人にしか過ぎませんでした。
しかし、日本では・・・
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