偶然のように思われた出会いも、今思えば必然だったのかもしれない。東海大相模で父・貢氏のもと白球を追い、3年間で4度の甲子園に出場。勝負強い打撃と爽やかな笑顔で、高校球界を代表するスターとなった。しかし、その未来は最初から決まっていたわけではない。中学3年の夏、甲子園で目にした“怪物の姿”が、一人の少年の進むべき道を決めた。 文=楊順行 写真=BBM 
高校3年間で合計4大会の甲子園出場を果たした原。聖地にも愛された
相模を志したきっかけ
原辰徳の甲子園は1974年8月12日、第56回全国高校野球選手権4日目に始まった。神奈川・東海大相模は初戦となる2回戦で茨城・土浦日大と対戦。マウンド上には
工藤一彦(元
阪神)がいた。3万5000人の観衆を前にした五番・原の初打席は2回裏。大きな体から投げ込まれる工藤の速球に対し、この年から採用された金属バットを一閃すると、打球は快音を残してセンター前へ。この初打席のヒットから足かけ3年、原はアイドルであり続けた。
ただ……もし、ひとつの出会いがなければ、東海大相模の原辰徳は誕生していなかったかもしれない。
1年前の73年夏、神奈川・上鶴間中3年の原は父と甲子園を訪れた。そして父の“顔”で関係者エリアに入ると、目の前に“怪物”がいた。次の試合に登場する作新学院の
江川卓(元
巨人)である。その年のセンバツでは20三振を奪うなど圧倒的な力を見せ、夏は練習試合を含めて、なんと140回無失点で再び甲子園に乗り込んできていたのだ。
分厚い体の存在感が、甲子園によく似合う。そして、意志を固めた。オレも、この球場でやりたい。原は振り返る。
「そのときの印象は鮮烈。進学先に迷っていたんですが、甲子園に出るためには相模しかない、と心が定まった」
そして翌74年春・・・
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