甲子園に生まれたアイドルたちは、何かしらの偶然によって生まれた。その偶然とは、果たしてなんだったのか。高校球界初のアイドルとも言われた「コーちゃん」も、もちろんそうだ。敗れてもなお、いや、敗れたからこそ人々の記憶に残る。1969年、夏の甲子園決勝、三沢対松山商。死闘の末、延長18回0対0の引き分けで再試合となった伝説の名勝負が、一人の選手の運命を変えた。 文=楊順行 写真=BBM 
松山商との決勝は延長18回、0対0の引き分けで再試合に。この大会6試合のマウンドを一人で投げ抜き、太田幸司は伝説となった
人々の心をつかんだ一戦
「当時からすでに全国区の人気者だった太田を見に行きましたよ。いやあ、男前でカッコよかったですねぇ」
1969年夏の甲子園。松山商(愛媛)と三沢(青森)の決勝は、延長18回引き分け再試合という珠玉のドラマだった。両チームのエースが、それぞれ18回を無得点に抑える震えるような一戦を経て、再試合では松山商が4対2で三沢を下した。その松山商のエースが井上明だ。後年、本人に当時の話を聞いたとき、開会式の待機中に三沢のエース・太田幸司の顔を拝みに行ったというのだから、なんとも高校生らしく、微笑ましい。
あの試合当時、筆者は小学生。太田がアイドルもかくや、という人気者になったのは、球史に残る試合で主役を演じたからだと思っていたが、井上によると、太田はあの夏以前からすでにスターだったわけだ。
さまざまなところで書かれているから詳細は避けるが、「延長18回」が語り継がれる伝説になったのは、両エースの力投はもちろん、野球後進県だった青森の三沢が、当時すでに春2回、夏3回の優勝を誇る強豪・松山商を土俵際まで追い詰めたことも一因にある。ことに延長15回、16回と、三沢はいずれも一死満塁という絶好のサヨナラのチャンス。だが松山商はこの危機を、二度とも脱したのだ。
延長15回裏の三沢はヒット、犠打エラー、バントで一死二、三塁となり、松山商は敬遠で満塁策をとった。3ボール1ストライクからの1球は、「押し出しか?」と身を乗り出すほどきわどかったが、ストライク判定。それでも3-2となり、スクイズでもサヨナラ勝ちという場面だったが、九番・立花五雄の打球は井上の右を襲うゴロ。グラブをはじいた打球をショート・樋野和寿が機敏にカバーし、間一髪アウト。後続も凡退で、松山商は絶体絶命のピンチを切り抜けた。
16回裏の三沢も、四球にバント、エラーのあと敬遠で、再びの一死満塁だ。2ボール2ストライクで、打席の高田邦彦にスクイズのサインが出た。ただ、三塁走者・小比類巻英秋は、手の内をすべて読まれているような気がした。予感は当たった。ウエストした外角高めに、高田のバットが届かない。飛び出した小比類巻も刺され、一瞬でチェンジとなった。
結局、延長18回を終えて0対0で引き分け。翌日の再試合で敗れはしたものの・・・
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