1998年。「平成の怪物」と言われた松坂大輔(元西武ほか)を擁した横浜(神奈川)は、史上5度目の春夏連覇を遂げた。夏の甲子園ではPL学園(南大阪)との準々決勝で延長17回の死闘、明徳義塾(高知)との準決勝では6点差を大逆転、そして京都成章(京都)との決勝はエース・松坂がノーヒットノーランで締め、18年ぶり2度目の全国制覇。幾度も劇的な展開を制した背景には、ユニフォームに込められたメッセージがあった。 取材・構成=岡本朋祐 写真=BBM 
愛着のあるユニフォームを目の前に撮影。ともに成長を遂げた高校3年間だった
斬新な「1ボタンタイプ」
静岡県出身。運命に導かれるように神奈川の名門・横浜へ進学した。初めての寮生活で戸惑いもあったが、家族のように親身になって接してくれた指導陣、チームメートは宝だった。 ──母校のユニフォームを目の前にして、率直に感じる部分はありますか。
後藤 僕たちの時代は春まではニット素材で、夏はメッシュ素材でしたので、いまのユニフォームを見ると、明らかに生地が進化しましたね。現在のは、肌触りが良く、グレーにも光沢があります。ボタンが一つのデザインは同じですね。一般的にユニフォームは下までボタンがあるかと思うんですが、はだけるケースがよくあると聞きます。横浜高校は以前からベースボールTシャツに近い、この「1ボタンタイプ」を採用し、機能的にも動きやすかったです。下まですべてボタンだと、少し引っ張られるみたいな感覚があり、あれが嫌だったので……。でも、このデザインであればその心配がないので、サイズに合わせてストレスなく着こなしができる。当時では斬新であったと思います。
──横浜高校へ進学した経緯を教えてください。
後藤 2年前に亡くなられましたが、浜松シニアの
佐野勝稔監督(元近鉄)が、横浜高校で渡辺元智監督の1学年下という縁がありました。シニアの先輩では
鈴木尚典さん(元横浜)をはじめ、その学年の中心選手は横浜高校へ進学する流れがあり、自分も目指していた一人です。チームで結果を残すと、渡辺監督、小倉清一郎部長が試合を見に来ていただいて、素直にうれしかったです。そこで、佐野監督が推薦してくれたのだと思います。佐野監督には中学3年間、本当にお世話になりました。
──浜松シニアの選手は自然のうちに、横浜高校に憧れを抱いていたんですね。
後藤 自分にとっては雲の上じゃないですけど、甲子園常連校。長く高校野球界をリードしている存在でしたので、横浜高校でプレーしたいと思っていました。
──3年後の横浜高校への進学を目指して、浜松シニアに入団したんですか。
後藤 小学校時代は神奈川の知識が乏しく、恥ずかしい限りですが、Y校(横浜商)と横高の区別もつかなかったほどでした(苦笑)。浜松シニア入団後、鈴木尚典さんが卒団式に来ていただいたり、1学年上の先輩2人も進学しており、横浜高校が身近な存在であったのは事実です。
チームを支えた「付き人」
──初めて「YOKOHAMA」のユニフォームを着た思い出はありますか。
後藤 対外試合のデビュー戦で、レフト後方にホームランを打ったんです。ただ、本塁打よりも印象に残っているのは、3年生の体の大きさです。自分が入学直前のセンバツに出場した2学年上にはエースに
松井光介さん(元
ヤクルト)がいて、野手では
阿部真宏さん(元西武ほか)、
幕田賢治さん(元
中日)が在籍していたんですが、ほかにも180cm以上の選手がゴロゴロ。プレーの精度も高く、高校3年間やっていけるのか、カルチャーショックを受けたのを覚えています。ずっと憧れていた横浜高校のユニフォームを着て、感慨深かったとは思いますが、そこまで考える余裕はありませんでした。1年生で使ってもらい、その期待に応えることだけを頭に入れていたと思います。
──1年夏の甲子園に出場。後藤さんは1年生で唯一、16人の登録メンバー入り(背番号15)を果たしています。
後藤 大変なことがあったんです……。今、思い出してもゾッとします……。甲子園に出場すると、新調されたユニフォームが支給されるんですが・・・
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