プロ野球史を沸かせたドラマの一つが、1975年球団史上初の最下位から優勝をつかんだ76年の長嶋巨人の躍進だ。その際、投のキーマンとなったのが、移籍1年目の加藤初。荒れ気味の剛速球が武器で、マウンドでまったく表情を変えないことから長嶋茂雄監督は「鉄仮面」と呼んでいた。 
勝利の後も少しニコリとする程度。とにかく無口だった
元巨人ほかの右腕・加藤初氏が12月11日、直腸がんのため静岡県内の病院で死去した。韓国のSKの投手コーチだった2011年に体調を崩し、帰国後、直腸がんと診断され、余命半年と告げられながら5年にわたる闘病生活を送っていたという。
加藤氏は静岡・吉原商高から亜大に進んだが、4カ月で中退し、大昭和製紙に入社。71年秋のドラフト前にいくつかの球団があいさつに来たものの、すでに同僚・
安田猛投手(のち
ヤクルト)が指名されることが分かっていたので、会社から「2人は指名しないでほしい」と各球団に通達があり、ドラフト指名はなかった。それでもプロ入りを強く希望し、自ら西鉄関係者に連絡し、ドラフト外での入団を決めた。この際、プロ入り志望を知って巨人も声をかけたというが、登板チャンスが多いだろうと西鉄を選んでいる。
1年目から17勝16敗で新人王。ライバルは1学年下の
東尾修投手だった。2人は
河村英文コーチ(故人)が“あおった”こともあって、競い合うように低迷期の西鉄で投げまくったが、ふだんは仲がよく、Wデートで海に行ったり、遠征先の宿舎では、よく2人だけのトランプ勝負で徹夜をした。加藤氏は、そのまま翌日のダブルヘッダーに一睡もせずに投げて完投してしまったこともあったというが、1時間仮眠して第2試合に投げた東尾氏も完投しているのだからすごい。
76年トレードで長嶋監督2年目の巨人へ移籍。先発、リリーフとフル回転して15勝4敗8セーブで最下位からの優勝に貢献し、4月18日の
広島戦でノーヒットノーランも達成している(広島本民)。しかし、バラ色のはずのオフ、肺門リンパ腫という難病が発覚。医師からは引退を勧められていたが、マスコミには肋膜炎と発表して隠しながら療養に努め、幸い自然治癒した。
ただ、以後成績は低迷。80年にはわずか1勝に終わったが、翌81年はスライダーを覚えて12勝、83年、今度は右肩の血行障害に苦しみ、手術。それでも投球スタイルを変化させながら86年には37歳にして14勝5敗をマークしている。試練は続き翌87年春には臀部とかかと痛で歩行もつらいほどだったというが、特殊な足底板をつくってもらい、7勝1敗。88年には夢だった東京ドームでの登板も果たしている。90年限りで引退。41歳まで投げ続けた不屈の鉄腕だった。
かつての所属巨人から死去が発表された20日は加藤氏の67歳の誕生日。長嶋巨人終身名誉監督は「私が監督1年目だった75年の最下位から翌年に初優勝できたのは、初ちゃんの活躍があってのものでした。こんなに早く亡くなるとは、とても残念です」と別れを惜しんだ。

ライオンズ時代のライバル東尾氏[右]と。太平洋時代
PROFILE かとう・はじめ●1949年12月20日生まれ。静岡県出身。右投右打。大昭和製紙からドラフト外で72年に西鉄へ。1年目から新人王に輝いた。76年に巨人へ移籍。89年からコーチ兼任、翌90年限りで現役引退。
西武をはじめ、台湾、韓国球界でコーチを務めた。通算成績490試合登板、141勝113敗22セーブ、防御率3.50。