1996年、日本一に輝いて以降、メジャー移籍のウワサもイチローについて回った。確かにその思いは本人の胸にあったのかもしれないが、イチローはプレーに集中。首位打者、最多安打の座は誰にも譲らなかった。しかし、その時はついにやってきた。イチローがメジャーに旅立つ日が――。 写真=BBM、GettyImages 
99年2月にはマリナーズのキャンプへ参加。翌年オフ、同球団への移籍が決まる
球界最高年俸へ
1997年、いかにもイチローらしい記録を作った。4月16日の
ロッテ戦で
竹清剛治の前に三振したのを最後に三振から遠ざかる。6月13日のロッテ戦で181打席連続無三振のパ・リーグ新記録。記録はさらに伸びて24日の
日本ハム戦で209打席連続無三振の日本記録を達成した。結局、25日の同カードで
下柳剛から三振を喫するまで216打席連続無三振まで記録は伸びた。
「ファンの期待に応えられて誇りに思っていいと思います」
10月7日のロッテ戦では
河本育之からプロ初のサヨナラ本塁打。ただ、「1年の1度の当たりが、ペナントが決まってから出てしまいました」と言うとおり、チームはすでに
西武に3連覇を止められていた(2位)。
イチローは打率.345で4年連続首位打者を獲得。これは70年の
張本勲(東映)に並ぶ日本タイ記録だ。代名詞である最多安打のタイトルも
松井稼頭央(西武)、クラーク(近鉄)に脅かされながらも4年連続で奪取した。グラウンド外で“メジャーへのウワサ”がささやかれるなど、雑音も多かったが、イチローはイチローらしく野球に対して誠実にプレーを続けた。
翌98年の終盤、イチローをアクシデントが襲った。8月30日の近鉄戦で
真木将樹の136キロのストレートが右肩上部、首のあたりを直撃、はね返ったボールが後頭部に当たるダブルパンチ。イチローは起き上がることができず担架で運ばれた。
新井宏昌コーチは「あのへんは打者が一番恐怖を感じるところ。ボールの残像が残るかもしれない」と後遺症を懸念した。
たしかにそれはあったかもしれない。31日の同カードではなんとか1安打したが、9月1日のロッテ戦は4-0。外野からの返球も山なりのボールしか投げられない痛々しさ。しかし、全力疾走のいつもの姿勢は変わらない。
それがはっきりと表れたのが・・・
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