マシンガン打線では六番を打ち、ベイスターズで18年を過ごした。その間、リーグV&日本一を頂点に、チームは激動の時代を歩んできた。栄光と挫折の両方を見てきた佐伯貴弘氏が平成のベイスターズを回顧する。 取材・構成=滝川和臣、写真=BBM 
1998年、日本一のフラッグをつかんだチームは「マシンガン打線」を前面に押し出し、絶対にあきらめない姿勢が浸透していた/佐伯氏は後列右から2人目
98年Vに至るまでの道程
前回優勝した1960年から長い時が流れ、元号は「平成」に改まり、5年後には大洋ホエールズから横浜ベイスターズに球団名が変わった。横浜の街に漂う優勝を渇望する雰囲気──。近藤昭仁監督、大矢明彦監督の下で、若い戦力が育っていった。 1993年に入団したときの監督は先日、亡くなられた近藤昭仁さんでした。大洋ホエールズから球団名が変わり、横浜ベイスターズへと生まれ変わったシーズンにドラフトで指名していただきました。当時の私はミスが多く、何度も怒らせてしまいましたが、その裏には愛情があり、たくさん試合にも使っていただきました。感謝しかありません。
ルーキーイヤーから一軍キャンプを過ごしましたが、オープン戦の終盤に入り一軍の主力投手が登板し始めると「これがプロか……」とカベに直面しました。驚かされたのが
巨人・
斎藤雅樹さん、私と同じ新人であった
ヤクルト・
伊藤智仁さんです。2人ともスライダーを武器にしていましたが、極端な表現をすれば、左打者である私の、外角のボールゾーンから内角のボールゾーンに曲がるようなイメージです。これには驚かされました。カベを乗り越えるためには、練習しかありません。入団1年目は、私と
鈴木尚典は昼前の11時から横浜スタジアムで特打。続いて外野の特守を1時間。その後、全体練習、ナイターの試合に出場。試合後、寮に戻って再び室内で特打です。プロの世界で生き残っていくために必死でした。
当時、チームはBクラスが続いていましたが、近藤監督(93~95年)と大矢明彦監督(96、97年)は私を含めて、若手を積極的に起用するなど将来を見据えたチームづくりをされていました。のちに優勝メンバーとなる
進藤達哉さん、
谷繁元信さん、
石井琢朗さん、
波留敏夫さん、鈴木尚、
駒田徳広さん、ローズがいました。とはいえ・・・
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