
腎炎を境に別人となった?田淵
いつも交代要員
田淵(
田淵幸一)が入団してから、僕のタイガース時代は、ほとんどあいつの交代要員でいたようなものでした。田淵が死球を受けたときや、病気になったときの出番ばかりでしたからね。そういえば、5年くらい前にあなたのところで、田淵と対談を組んでもらいましたよね(『
阪神80年史』)。あのとき、田淵が「僕の野球人生で見てきた中でもキャッチングはNo.1」とほめてくれたのはうれしかったな。え、覚えてない? ほんとにもう、肝心なところを全部、忘れる人ですね(笑)。
少し前に、昭和46年(1971年)、田淵が腎炎で欠場し、僕がケガしながら出ていたという話をしました。あの年、田淵は復帰してからも一塁に入り、僕は生涯で1度だけ全試合に出場しました。対談のときにいたベテランの記者さんが「ダンプさん、あれはセ・リーグの捕手では史上初の全試合出場だったんですよ」と教えてくれましたが、地味ばっかりの僕の野球人生にも、探せば何か出てくるものですね(笑)。
その前の年、あいつが
広島の外木場(
外木場義郎)さんに、耳あたりに死球を食らった後も、実は同じようなことがありました。あのときも一軍のキャッチャーが僕と藤田(
藤田訓弘)しかおらず、藤田がブルペン、僕がゲームでやっていたんですが、広島遠征の宿舎で、中腰のまま座布団を引き上げようとしたら、ヒジの内側から「ピリッ」という音がした。トレーナーに相談したら、すぐ病院に行けと言われ、診断は右ヒジにネズミがあるということでした。手術か痛み止めと言われたんですが、その日もゲームがあったんで、痛み止めの注射をして帰ってきました。
注射はしましたが、ヒジを曲げたり伸ばしたりすると痛むんで、監督の村山(
村山実)さんには「無理かもしれません」と言ったんですが、「我慢すれば大丈夫だろ」と(苦笑)。
まあ、ヒジが痛まないようなふりはできましたが、相手にばれたら、どんどん走られるじゃないですか。何とか、ごまかしながらやって、結局、1カ月半くらいかな。痛いままでした。その間ですか?
相手には一度もバレなかったですよ。僕も意外と器用なところがあるんです(笑)。
田淵が変わったのは、昭和47年(1972年)、腎炎の翌年のキャンプです。突然、とんでもないバッターになっていた。それまでは正直、ヒョロヒョロと背が高いだけで大したことないと内心では思っていたんですが、とんでもない打球だった。軽く振ったように見えて、打球が高く上がって落ちてこないんです。あとで聞いたら、江夏(
江夏豊)に・・・
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