88年から抑えで活躍した中山
親指が浮く
この間、高校生の練習会(「プロ志望者合同練習会」)をテレビで見ていたら、一人、いいなと思ったキャッチャーがいたんですよ。構えでしっかり三角形をつくっていた。ただ、ピッチャーが引っ掛けたような球を投げて後逸したら、その後、一気にボロボロになった。変に力が入っちゃってね。ああいうときは、おかしな球を投げたほうが悪いんだと、ふんぞり返っていればいいんですけど、なかなか高校生じゃ難しいかな。
まあ、僕も現役のベテラン時代はふんぞり返って遊んでましたが、コーチになってからはそうそう偉そうにもしてられん。二軍コーチだったし、しっかり育てんと、こっちがクビになっちゃいますからね。
僕は、昭和59年(1984年)限りで大洋を引退し、翌年から二軍のコーチになったんですが、一軍は僕にクビを宣告した関根(
関根潤三)さんが退団し、
中日の監督をしとった
近藤貞雄さんになってました。
それで僕のコーチ2年目、昭和61年にドラフト1位で入ってきたのが、金ちゃんです。高知商(高)のエースだった
中山裕章。ありゃ、名前が金ちゃんじゃなかったのか。じゃあ、なんで金ちゃんだったのかな……。金太郎みたいな顔をしてたからでしょうか。僕らは金ちゃんとか、金坊と呼んでました。
最初から球は速かったですよ。けど、高めに抜けるような棒球を投げることが多く、一軍ではなかなか勝てなかった。それで二軍に落ちてきたとき、二軍の投手コーチだった鈴木(
鈴木隆)さんと一緒に「ドラフト1位だし、こいつを何とかしないきゃいかんな」という話になった。それで鈴木さんとあとはスコアラーと一緒に、金ちゃんのピッチングを徹底的に調べました。1球1球、コースや球速を調べて、抜けた球を投げているときは、どんなフォームなのかをじっくり見た。
そしたら分かったんですよ。1つはっきりした特徴があった。分かりますか・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン