
1979年秋、巨人・長嶋茂雄監督は伊東キャンプで若手選手を徹底的に鍛え上げた
事故が起こって変わる
今回も球場話ですが、この間、川崎球場で話し忘れたことがいくつかあります。え、いくつもいらない?
またまた、あなたは(苦笑)。確かに、何だかだらだらした話になってきましたけど、それはもう仕方ないでしょ。この歳になると、話しているうちに思い出すことのほうが多いんです。
じゃあ、一つだけにしておきます。あれは昭和52年(1977年)4月29日、僕が大洋に移籍して3年目です。
阪神のレフト・
佐野仙好が打球を追って外野のフェンスに頭から突っ込んでいったことがあります。ピクリとも動かなくなって、救急車がセンターからの出入り口から入ってくるのを初めて見ました。あれからですね。外野フェンスが柔らかくクッションのいいラバーになったのは。
こういう事故があってからの変化というのは何度もあって、ヘルメットもそうでしたね。昔は帽子の中に硬めのダンボールを入れてショックを吸収しようとしていたこともありましたが、その後、耳なしのヘルメットが普及した。最初、右打者は左投手ではヘルメットなしで打席に入っていましたけどね。
田淵(
田淵幸一。阪神)が昭和45年(70年8月26日の
広島戦。甲子園)に頭に死球を受けて死にかけ、それから新人は強制的に耳付きのヘルメット、それ以外は個々の判断になりました。そのあと両耳のヘルメットが出てきて、今や、あごの防御までやっていますから変わるものです。
カッパもそうです。キュウリ? 何をボケているんですか(苦笑)。雨具のね。昔は体にぴたっとくるやつで、汗をかくために雨が降らんでも練習で着ているヤツがいたんです。でも、締めつけられてるから結構危なくて、阪急にいた大橋(
大橋穣)がヒジを痛めちゃったときがある。それからですよ。メーカーが慌ててゆったり余裕があるカッパを作って持ってくるようになりました。
では球場の話に戻りましょうか・・・
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