巨人のV10を阻止した1974年を最後に優勝から遠ざかっていたドラゴンズだったが、80年代は2度の優勝を味わった。野武士野球と言われた近藤貞雄監督の下で選手が躍動した82年、そしてチームに闘志を植え付けた星野仙一監督の88年だ。どちらも優勝に貢献した小松氏の記憶。 
82年の優勝は最終戦で決着。完封勝利を飾った小松と中尾のバッテリー。中尾はこの年のMVPに選ばれた
背番号20を背負った理由
1980年と言えば
高木守道さん、
木俣達彦さん、星野仙一さんと大ベテランの先輩方がまだご健在でしたよ。僕は高卒のプロ3年目で、まだペーペーのころ。先輩方は「試合で結果を出せばいいんだろう」という感じで各自がマイペースでやっていました。もちろん派閥もありました。僕は星野さん(笑)。投手陣をまとめていたのは星野さんだったし、何しろ見たまんまの親分肌。みんなをグイグイと力強く引っ張っていました。
僕の小さいころは巨人のV9時代でね。自分の中でプロ野球の優勝というのは巨人がするものだと刷り込まれてしまった(笑)。それほど強かったということです。確か中学3年生のときに
中日が優勝して(74年)、巨人以外のチームでも優勝できるんだ! と非常に驚いた記憶があります。まさか自分がそのチームに入って優勝することになるなんてね。
その82年はプロ5年目で初めて開幕投手に選ばれましたが、すぐに足をやってしまって(右股関節挫傷)戦線離脱してしまいました。復帰するまで4カ月ほどかかって、一軍に戻ってきたのは8月に入ってから。すると今度はストッパーをしていた
牛島和彦がケガ(右ヒジ痛)で離脱となり、ほぼ入れ違いのようになって僕が牛島の代わりにストッパーを任されるようになったんです。牛島が戻ってきてからの終盤はダブルストッパーという態勢でした。
あの優勝は最終戦で決まるという劇的な展開でした。負ければ巨人が優勝。その大一番で先発を任せられ、しかも完封しましたけど、実はあの年、先発したのは開幕戦と最終戦の2試合だけ。そんな投手はなかなかいませんよ(笑)。
最終戦の完封は意気に感じて投げた結果。自分が先発で投げるしかないと思っていたし、もちろん緊張はしたけれど、やってやるという気持ちのほうが強かった。巨人戦でもないのに全国が注目しているし、確かテレビも『欽ドン!』を差し替えての放映でしたよ。80年代の大人気番組、欽ちゃんですよ(笑)。
背番号を34から20に変更したのは84年のこと。言うまでもなく中日のエースナンバー。ずっと星野さんが着けていましたが、82年限りで引退し、83年は誰も着けずに空き番号になっていました。球団から呼ばれて「どうだ」と打診がありましたが・・・
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