1980年代のパ・リーグと言うより、日本プロ野球史を語る上で、欠かすことのできない1日だった。1988年、昭和63年10月19日、波瀾万丈の1日に何が起こったのか。 
第2試合10回裏、すでに近鉄の勝ちはなくなった……
西宮球場の異変
1988年、昭和63年10月19日の報知新聞(東京)の一面に近鉄・
ブライアントの笑顔の写真が掲載されている。6月にデービスが大麻所持で逮捕され、解雇。急きょ
中日から獲得した選手だが、猛烈なフルスイングでホームランを量産し、近鉄快進撃の原動力となった。
西武は10月16日、首位のまま全日程終了。4試合を残していた2位の近鉄は、17日の阪急戦にこそ敗れたが、18日、川崎球場での
ロッテ戦はブライアントの2本の2ランもあって12対2と快勝。残るは、19日の同カード、ダブルヘッダーとなった。逆転優勝の条件は連勝のみだ。
パ・リーグ史上もっとも長い1日として語り継がれる伝説の「10.19」。最初の激震地は川崎ではなく、西宮球場だった。まだ3試合を残していた阪急は試合がなく、練習日。12時20分、
上田利治監督が
中田昌宏二軍監督の後、投打の主力・
山田久志、
福本豊も呼んだ。そして13時、集合した選手に「オリエント・リースに球団が譲渡された」と告げる。上田監督は「リーグ優勝が決まる大事な日に、こんなことになり申し訳ない」と青ざめた表情で語った。
すでにダイエーへの身売りが決まっていた南海の球団事務所では、首脳陣が集まり、89年の戦力検討会議をしていた。福岡への移転を嫌がり、移籍を希望していた
門田博光の問題もあって30人ほどの記者が詰めかけていたが、阪急身売りの知らせに半分以上が移動。ロッテ-近鉄戦を控えた川崎球場の記者室からも関西メディアの相当数が帰阪している。17時からの会見で、本拠地は西宮のまま、新球団名は「
オリックス・ブレーブス」となることも発表された。
川崎球場での第1試合は、15時からスタート。ロッテが初回に2点を先制し・・・
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