「黒い霧事件」で弱体化した西鉄ライオンズを西武が買収し、所沢に移転したのが1979年。そこから4年後の82年に早くも日本一に輝き、90年代中盤までの黄金時代を築くことになる。西武初年度からチームに加わり、80年代に先発として絶対王者の一員となったのが兄ヤンこと松沼博久氏だ。 
83年、兄弟で通算100勝を挙げて弟・雅之(右)と。松沼はまだヒゲを生やしていない
広岡監督のおかげで
1979年、福岡から所沢に移転して、西鉄から西武になった新球団に私は弟(
松沼雅之)とともにドラフト外で入団しました。でも1年目、チームは開幕から2引き分けを挟んで12連敗。記念すべき初勝利は私がマークしました(4月24日、南海戦)。ファンも大喜びして、ビクトリーロードで、もみくちゃになったことを覚えています。
当時の
根本陸夫監督は負けても、「レッツゴー」「明日、明日」と常に前向きでしたね。結局、1年目は最下位に終わりましたが、80年は4位。根本監督3年目の81年には前期で2位になって、シーズン通じては4位でしたが勝率5割。チームが強くなっているのを実感していたところで、根本さんが管理部長となり、82年から
広岡達朗監督が就任しました。
これは私にとってターニングポイントになりました。というのも、1年目は16勝を挙げて新人王を獲得しましたが、2年目9勝、3年目5勝と成績が右肩下がりになっていたからです。3年目には肩をケガして、「もうダメかな」と。4年目の自主トレでは5メートルくらいしか投げられませんでしたから。だから、広岡監督に「肩が痛くて投げられません」と告げたんですけど、「お兄ちゃんの投げ方では痛くなって当たり前。一緒に治そう」と言ってくれて。トレーナーをつけてもらって、体操からスタート。
肩をグルグル回していると、広岡監督が寄って来て「シャーッと投げるんだ」と。それまではバックスイングでもグーッと引っ張って力を入れていました。でも、そうではなくて、腕のしなりをうまく使って、無理のないフォームで投げなさいということです。これがハマりました。ステップもクロスからスクエアに直しました。広岡監督がじっくり見てくれて、おかしくなったら助言もくれて。82年は10勝を挙げ、そこから4年連続2ケタ勝利をマークすることができました。
広岡監督は当然、厳しさもあります。練習中、ちょっとでもダラダラしていると・・・
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