
勝負強い打撃が光った阪神・池田
外国だった沖縄の思い出
前回から僕のほんのちょっぴりの海外経験を話しています。昭和38年(1963年)春、阪神がアメリカのフロリダでやったキャンプに参加したのが第1回で、まだ20歳でした。前年夏入団だったので、ピッカピカの、ほぼルーキーでした。
その続きですが、実は今回の話は、今までとだぶりが多いかもしれません、それは……えっ、今回も? 意地悪はやめてください(苦笑)。100回以上連載しているんですから、全部違うことしゃべるなんて無理ですよ。なんとなく違う話も加えていくのでご勘弁ください。
では僕の2回目の海外経験から話していきましょう。それは沖縄です。沖縄なら日本じゃないか? いえいえ、僕が行ったのは昭和39年(1964年)秋ですよ。沖縄は戦後、昭和47年(1972年)までアメリカ軍に統治され、日本人の僕らも、行き来はパスポートが必要な“外国”でした。
当時は春と秋にオープン戦があって、特に秋は、決まった球団とセットで地方遠征をすることが多かった。あのときは
広島と一緒のオープン戦でしたが、試合より印象にあるのは帰りです。みんな洋酒やら何やらを買いまくって、当時あった日本に持ち込める個人の制限額を遥かに超えてしまった。帰りの税関をひやひやしながら通過したのは、以前話したとおりです。いわば密輸ですから、捕まらなくてほんとによかったです。
阪神時代、沖縄には、その後もオープン戦で一度行っていて、次のときは熊本の八代東高から昭和40年(1965年)に入団した
池田純一の記憶があります。彼は投手で阪神に入った男ですが、なかなか結果が出ず、途中から外野手になりました。
あのときは・・・
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