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訃報

名リリーフ・清川栄治氏が死去 62歳、左横手投げ、中継ぎのみ438試合登板

 

西武は5月13日、投手育成アドバイザーの清川栄治氏が悪性腫瘍のため5月5日に都内の病院で死去したと発表した。62歳だった。現役時代は広島と近鉄で左腕リリーフとして当時の日本記録438試合連続救援登板する、リリーフ一筋の野球人生だった。引退後は広島、オリックス、西武で投手コーチを務めた。

サイドスローに転向し、広島、近鉄の貴重な左腕リリーフとして活躍。中継ぎのみで438試合に登板した


 真面目で、几帳面な性格が、リリーフの地位向上にひと役買っている。契約交渉の取材をしたとき、スーツケースを持参してきた清川栄治氏。その中には、自身の投球内容を整理した資料がびっしりと並べられていた。

 本誌で連載していた「記録の手帳」の中で「インヘリテッド率『(生還ランナー)÷(イニング途中ほかの投手から引き継いだランナー)×100』」というメジャーでの指数データを取り上げた。1992年に掲載されたこの誌面を読み「これだ!」と、毎試合登板後に自分なりの資料をつくり、オフの契約更改に臨んだ。

本誌の連載をヒントに、清川氏が自ら制作した自身の投球内容を示した資料。毎年、契約更改で提示して球団と年俸について話し合った



 生意気な資料になるかもと、マイナス査定を覚悟して席に着いた。だが、この表を見た当時近鉄の前田泰男球団社長が「この割合はどうやって出すんや? 自分の仕事に自覚を持ってやっているな」とほめてくれた。資料作成も仕事だと評価されたという。清川氏は「たまたま(この資料で)年俸を上げてもらった」とにこやかな笑顔で当時を振り返っていたが、こういう努力がリリーフの地位向上への礎になったのは間違いない。

笑顔を絶やさない人


 今でも忘れられない清川スマイルがある。2013年、社会人・日立製作所で投手コーチに就任。都市対抗野球に出場し、ベンチ入りした。試合に勝った直後、顔を真っ赤にしながら「ホンマ、よかったよ! みんな必死にプレーしている。プロにはないドキドキ感に感動したし、勉強になるわ」と珍しく早口で捲し立て満面の笑みを見せていた。

 もう一つは、オリックスコーチ時代に教えた投手が、現役引退後に出店した居酒屋に食事に行ったときのこと。その元投手が、違う元チームメートをサプライズで呼んだのだ。突然の訪問に「おお! 元気だったか!」と満面のスマイルで喜んでいた。常に笑顔を絶やさず、誰にでも分け隔てなく丁寧にコーチングをする清川氏だからこその出来事だった。

「清川さんを悪く言う人に会ったことがないんです」とオリックス時代の教え子、近藤一樹氏(元ヤクルトほか)も訃報を耳にし、肩を落としていた。広島時代の厳しい練習、近鉄時代の個性豊かな投手陣をまとめた話。コーチ時代の苦労など、たくさんの話を聞いたが、常に笑顔で笑い話として楽しく語ってもらった。13年の冬に食事を誘っていただいたとき「縁の薄かった西武に声を掛けてもらってね、恩に着るよ。年齢を考えるとこれが最後のご奉公になるかな。頑張るよ」と酒をおいしそうに飲みながら話していた。

 あれから11年――。清川さん、あなたが全霊を掛けて教えた投手たちは、現在パ・リーグ屈指の投手陣になりましたよ。もちろん広島、オリックス、西武の教え子全員の心の中にも「清川栄治の投手魂」は永遠に生き続けていきます。合掌――。

PROFILE
きよかわ・えいじ●1961年9月21日生まれ。京都府出身。左投左打。京都商高から大商大を経て1984年に広島にドラフト外で入団。サイドスローに転向し、リリーフとして活躍。87年には29人連続出塁なしの記録をつくる。91年のシーズン途中に近鉄にトレード移籍。97年に438試合連続救援登板し、当時の日本プロ野球記録を樹立。98年に広島に復帰し、この年限りで現役引退。99年から2006年まで広島、07年から12年までオリックス、13年は日立製作所、14年から西武でコーチを務めた。
【通算成績】実働15年/438試合/13勝10敗12セーブ/364回/375奪三振/防御率2.94。
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