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THE LAST GAME 最後の勇姿

<引退試合>ヤクルト・青木宣親 変わらぬ技術と心で「自分の生き方は間違っていなかったと、出会った皆さまが日々、教えてくれました」

 

シーズン終盤に入り、各チームで行われた引退試合。今年も一人また一人とグラウンドに別れを告げた。秋風が吹き始めた10月。慣れ親しんだ舞台で現役生活に終止符を打った選手のラストゲームを追う。
写真=桜井ひとし

2024.10.2@神宮

10月2日の広島戦[神宮]、大歓声を浴びて最終回の守備に就くヤクルト青木宣親


 愛あふれ、涙こぼれる。神宮球場のど真ん中に一人立ち、言葉を紡ぐミスター・スワローズ。瞳に浮かぶ涙はスポットライトにも照らされ、より一層の美しさを放っていた。10月2日、広島戦(神宮)終了後、青木宣親の引退セレモニーが行われた。「プロに入って21年。自分の生き方は間違っていなかったと、出会った皆さまが日々、教えてくれました。自分に関わってくださった皆さんに感謝しています」と謝意を伝えた。

 選手全員が背番号23を着けた同日の試合は、かつての定位置である一番・中堅で先発。左翼、右翼と守備位置を変えてフル出場し、5対3で戦い終えた。

 磨き上げた技術がさびることはなかった。2回の第2打席、外角直球を華麗な流し打ちで左前に運ぶと、6回の最終打席では直球を強振。一塁手の頭上を越える右翼線への二塁打に球場が沸き上がる。「思ったようなパフォーマンスをファンに見せることができない」という引退決断の理由がうそのような、クリーンヒットを左へ右へ打ち分け、日米通算安打を2730に伸ばした。「打つシーンをもう何百回、何千回って見てきたけどまったく変わってない」と高津臣吾監督が語ったように、青木はユニフォームを脱ぐ最後までヒットメーカーであり続けた。

2回の第2打席に左前打[写真]。6回には右翼線への二塁打と打撃技術は衰えず


 信念を貫いたからこそ今がある。早大から2004年にドラフト4巡目でヤクルト入団。2年目の05年にNPB2人目(当時)の200安打を達成し新人王に輝くと、10年にはNPB唯一となる2度目の200安打。首位打者3度、ベストナイン、ゴールデン・グラブ賞各7度をはじめ、数々のタイトルを獲得してきた。日の丸を背負い06、09年の連覇を含むWBCに3度出場。12年からはメジャー・リーグに挑戦しワールド・シリーズも経験した。18年にヤクルトに復帰。21年には自身初のリーグ優勝&日本一の歓喜に涙した。栄光に彩られた21年のプロ野球人生。だが、順風満帆に見える中にも、大変な思いはしてきたと言う。それでも、「人が無理だとかそんなことを言っていても、自分さえ信じていれば大概のことはかなうというふうに思っている」と不屈の精神で道を切り開いてきた。

打席に入るたびに拍手と声援が沸き上がった球場は、来場者配布の応援ボードで一面が緑に


 引退試合では球場に詰めかけたファンはもちろん、多くの後輩たちが涙を流した。入団1年目のオフから青木の自主トレに参加し、「こうしていい野球人生を歩めているのは、(青木)ノリさんのおかげ」と語る村上宗隆は試合前の円陣から号泣。「(青木との)自主トレがなかったら今の僕はない」と今季、最多安打に輝いた長岡秀樹も目を赤くして思いを語った。絶対的な技術に加え、野球に対する姿勢が後輩たちの見本であり続けた。

7回途中には石川雅規[右端]が救援登板。長きにわたりチームを支えた2歳上の先輩と熱い抱擁


 セレモニーの最後に「自分が愛したこの球団をよろしくお願いします。また会いましょう!」とファンに言葉を残した青木。プロ野球選手・青木宣親とはこの日でお別れ。だが、再び神宮球場で会える日をファンは信じて待っている。

涙のスピーチを終えて仲間から胴上げ。神宮球場の宙を5度舞った


PROFILE
あおき・のりちか●1982年1月5日生(42歳)。175cm80kg。右投左打。外野手。宮崎県出身。日向高-早大-ヤクルト04[4]-ブリュワーズ12-ロイヤルズ14-ジャイアンツ15-マリナーズ16-アストロズ17-ブルージェイズ17途-メッツ17途-ヤクルト18〜24引=15年。

<成績>■日米通算=2483試合、2730安打、178本塁打、886打点、275盗塁、打率.305
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