読売新聞グループ本社の代表取締役主筆で、巨人のオーナーとしてもプロ野球界に君臨した渡邉恒雄氏が、12月19日午前2時に肺炎のため都内の病院で死去した。98歳だった。 文=池田哲雄(ベースボール・マガジン社社長) 2001年の監督交代会見での渡邉氏[中央]。左は当時の長嶋茂雄監督、右は原辰徳新監督
野球は知らないが野球協約なら熟知している
東大文学部哲学科出身の渡邉恒雄さんは学生時代に哲学者を志していた。だから野球にはまったく興味がなかった。水上健也編集局長に連れられて後楽園球場の巨人戦を観戦したが、打者が四球で一塁へ歩いても、「なぜ、一塁へ行くのですか?」と尋ねるほどだった。
野球のルールは知らなくても、野球協約には精通していた。その理由は編集局総務時代に起きた1978年11月21日の江川事件がきっかけだ。「空白の1日」を利用して、当時、作新学院職員だった
江川卓と強引に契約を交わした巨人は世論の激しいバッシングにあった。その後始末を務台光雄社長から命じられたのだ。
読売新聞の部数が減るという危機感の中で、「江川くんに代わって、
小林繁くんを
阪神へトレードで出してほしい」との金子鋭コミッショナーの強い要望によって、事件を収束させた。
2004年、近鉄が球団経営を手放して、
オリックスとの合併を表明する。巨人のオーナーとなっていた渡邉さんが中心となり、10球団1リーグの構想を打ち出すと、世論と
ヤクルト・
古田敦也を中心としたプロ野球選手会が猛反発した。
「古田会長が、できればオーナー陣と話がしたい……」と、会食後に待ち受けていた某スポーツ紙記者の質問にほろ酔い加減の渡邉オーナーは、「分をわきまえていないよ。たかが選手が」と答えた。
しかし、その言葉には「選手会では統合は失業につながるとして反対している。だが、統合は経営事項である。選手会や労働組合が介入できる事項ではない」との原理原則が反映されていた。「野球は知らないが、野球協約なら誰よりも熟知している」渡邉オーナーの真骨頂だった。
プロ野球は05年シーズンから
楽天が新規参入。さらに
ソフトバンクもダイエーを買収して12球団制を維持しながら今日の繁栄を迎えている。
93年オフ、その年の5月15日にJリーグが開幕したことを契機に週刊ベースボール誌上で、「野球とサッカーは共存共栄できるか?」というテーマで、巨人V9監督である
川上哲治さんと、Jリーグチェアマンの川淵三郎さんとの対談を行った。
「例えば、数年前にセ・リーグから何球団が脱退して、新たなリーグをつくるという話がありましたよね。もし、それがサッカーだったら、『どうぞ、どうぞ、出ていってください。その代わりにあなたたちはワールドカップには出場できませんよ』ということになるんです」
日本サッカー協会(JFA)とJリーグの相互関係。「プロスポーツの真のプロ化」というテーマをあらためて考えさせる川淵さんの発言だった。
渡邉さんと川淵さんは、読売グループ傘下のヴェルディ川崎に、企業名を外して地域名を冠するように求めたことに渡邉社長が猛反発。侃々諤々(かんかんがくがく)の論戦を繰り広げた。その結果、多くのファンにJリーグの理念を知らしめることになった。“独裁者”と言われながらも、戦後最大の政治記者である渡邉さんは終生、主筆の座を貫いた。論客として、政財界、プロ野球界、さらに日本のスポーツ界発展のために、大きな足跡を残した。
その功績を称えて、築地の新球場が完成する近未来に、特別委員会選出によって野球の殿堂にその名を永久に記すことを望むのは、筆者だけだろうか。
PROFILE わたなべ・つねお●1926年、東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒。50年、読売新聞社入社。ワシントン支局長、政治部長、論説委員長、グループ本社代表取締役社長・主筆、同会長などを経て16年から代表取締役主筆。96年から04年までオーナーを務めるなど長年にわたり読売巨人軍の球団運営に携わった。