
多賀監督の退任会見には、かつての教え子である村西氏[左]、島脇氏[右]がサプライズで登場した
輝いたOHMIブルー
近江高(滋賀)を春夏通算23回の甲子園出場へと導き、通算28勝を挙げた多賀章仁監督が3月10日、彦根市内の同校で退任会見を行った。
「私としてはもう少し頑張って、甲子園であと2勝したいというのはありましたが、36年間も監督をさせてもらえたことが本当にラッキーだと思います。高校野球の指導者としてここまで携われたことは奇跡です」
平安高、龍谷大、龍谷大コーチを経て、1983年に社会科教諭として近江高に赴任し、野球部コーチとなったのが指導者の始まりだった。89年に監督に就任し、92年夏に初めて甲子園へと導いた。2001年夏には「3本の矢」と言われた3人の投手の巧みな継投で、県勢初の甲子園決勝に進出し、準優勝を遂げた。
18年夏の甲子園では左腕・
林優樹(
楽天)と
有馬諒(ENEOS)の2年生バッテリーで8強進出。金足農高(秋田)との準々決勝では2対1でリードした9回裏、相手の2ランスクイズで逆転サヨナラ負け。無念の敗退を喫したが、最後まであきらめない、すがすがしい戦いを見せたナインの姿が高校野球ファンの共感を呼んだ。22年春のセンバツは新型コロナ禍で出場辞退した京都国際高の代替出場。主将でエースの
山田陽翔(
西武)が投打で活躍。大阪桐蔭高との決勝で敗退したが、5戦594球を投げた姿は、多くの観衆の心を惹(ひ)きつけた。高校生らしい全力プレー。伝統の近江ブルーのユニフォームは、自然とスタンドを味方につけていた。すべては心の教育を実践する、多賀監督の指導力の賜物であった。23年夏には育成功労賞を受賞。退任を決意したのは、昨夏の県大会後。常に聖地・甲子園に魅了されてきた。
「甲子園に来るたび『これが最後になるのかも』という思いと『また帰って来たい』と思うこともあり、その結果、28勝も挙げることができました。計51試合もできたのは奇跡です。ベンチの前で校歌を歌うと、このままスッと、あの世へ行っても悔いはない、と。甲子園はそれぐらいの思いをさせてくれる場所でした」。
貫いた指導ポリシー
監督就任時は県立の伝統校・八幡商高の厚い壁に何度も跳ね返されてきた。「八商を破らないと甲子園はない。そういう思いで戦ってきた」。忘れられない一戦がある。優勝候補とされながら17年夏に滋賀大会決勝で左腕・
増居翔太(慶大-トヨタ自動車)を擁する彦根東高に1対4で敗退した。「この敗戦は、1カ月近くショックを引きずりました」と悔しさを味わいながらも、課題を一つひとつ見つめ直し、基礎基本を徹底。翌18年からコロナ禍の中止を挟み、23年まで5大会連続で夏の甲子園出場。県内では不動の地位を築き、全国屈指の強豪校へと育て上げた。
過去の思い出に触れて時折、涙で声を詰まらせる場面もあった。
「主役は高校生。自分の思いを押しつけず、そこを指導者がどうコントロールできるかが大事」と、指導者としてのポリシーを語った。約1時間の会見が終わると、多賀監督の教え子で、同校初のプロ野球選手となった村西辰彦氏(元
日本ハム)、01年夏の準優勝時に投手陣の一角を担った島脇信也氏(元
オリックス)が花束を持ってサプライズで登場。島脇氏は「多賀監督と出会って、野球だけでなく、人間として大切なことを教えていただいた。自分を成長させてもらえたことに感謝したい」と述べた。指揮官は感無量だった。
後任には01年夏の甲子園準優勝時の主将で、コーチを務めてきた小森博之氏が就任。恩師が果たせなかった、滋賀県勢悲願の日本一に挑戦する。多賀監督は総監督として、チームをバックアップしていく予定だ。
取材・文・写真=沢井史